私の西郷隆盛観

2023年9月16日 西郷南洲東京顕彰会にて講演(@三州倶楽部)

 みなさま、こんにちは。
衆議院議員、古川禎久と申します。西郷南洲東京顕彰会にお招きをいただき、ありがとうございます。大変光栄に思っております。
 あらかじめ「私の西郷隆盛観」というお題を頂いておりましたので、今日は、それにしたがって存分に私の思う処を申し上げたいと思っております。どうぞ、よろしくお願い致します。

 私は、宮崎県串間市、志布志湾沿いの小さな田舎町で生まれました。母方の祖父は明治生まれの厳しい人で、いつも「西郷さんは偉らかった。西郷さんは偉らかった」というのが口癖でした。まだ小さかった私が「ジイチャン、西郷さんて何がエライとね?」と聞きますと、祖父は得意げに「西郷さんは、よか若者をドンドン引っ張り上げて、よか仕事につけた。禎久、おまえも将来、代議士になってよか若者をドンドン引っ張り上げんといかんど」と言うんですね。私はまだこんなに小さいんですよ。
 今思えば、大西郷の偉大なイメージ、それから自分は将来代議士になるのだ、という刷り込みは、この時点で完了していたんだと思います。

 私の母校・串間市立福島小学校は明治五年の創設ですので、けっこう古いんです。小学四年生の頃、女子の間でおじゃみ、お手玉が流行ったんです。数え唄を歌いながらお手玉をするんですが、その唄というのが、
 一かけ、二かけ、三かけて、四かけて、五かけて、橋をかけ、橋の欄干腰をかけ、はるか 向こうを眺むれば、十七八のねえさんが、片手に花もち線香もち、ねえさん、ねえさんどこ行くの、わたしは九州鹿児島の、西郷隆盛むすめです、明治十年たたかいに、討死なされし父上の、お墓参りでございます、お墓の前で手をあわせ、ナムアミダブツとおがみます、もしもわたしが男なら、父上様の仇討ち、梅には鶯とまらせて、ホーホーホケキョと啼かせます… 
 当時は、何も考えずに唄ってましたけど、これ、まぎれもなく鎮魂歌ですね。西郷さんと「セゴユッサ」西南戦争の鎮魂歌です。そういえば、小学校の正門前には、串間から西南戦争に参加して戦死した方々の石碑がありました。
 ですから、西郷さんというのは、遠い遠い昔の人なんかじゃない。実は身近なところでまだ余韻の残る、いいや、地続きで今につながったところにいる。そんな気がするのですよ。

 私の実家は古くは海運業をやっておったそうです。私の父が生まれた頃には既に廃業していましたが、それでも中国の大きな皿とか壺、取引を書き付けた帳面の束などがたくさん残っていたそうです。五百石の船もあったといいますから、わが家はきっと東シナ海で交易をしてたんでしょう。
 だって志布志湾ですよ。ご存知の通り、薩摩は坊津や志布志を拠点にして、密貿易をしていたわけですからね、きっとわが家もその一端を担っていたに違いない…というのがわたしの想像です。なので私は「オレは串間海賊の末裔だ」なんて勝手な冗談を言ってるんです。

 ちょっと脱線しますが、志布志湾といえば思い出すのが山中貞則先生です。ご存知のとおり山中先生は鹿児島選出の衆議院議員で、末吉町深川いまの曽於市のご出身です。
 私が三十八歳で初当選したときに、東京の山中先生の事務所にご挨拶に伺いました。山中先生は二時間ちかくだったでしょうか、戦後政治の裏話をはじめ、さまざまご指導をくださいました。なかでも忘れられないのが、沖縄の話です。山中先生はこうおっしゃった。「戦争末期、アメリカ軍は、沖縄を飛び越して、直接、志布志湾に上陸する作戦案をもっておった。もし、志布志湾じゃったら、今頃オイはここに、こげんして生きちゃおらんじゃろう。じゃっで沖縄の犠牲をけっして他人事とは思えん…。沖縄のみなさんの声に耳を傾けて、傾けて、傾けすぎるちゅこっはなかち思う」。そうおっしゃいました。
 山中先生が亡くなられたとき、沖縄では県民葬がとりおこなわれました。そして先生には名誉県民の称号が贈られたそうです。先生の思いが沖縄県民に通じていたということですね。
 私の両親もまた、志布志湾沿い串間の生まれ育ちです。もし、志布志湾上陸だったならば、両親も私も今ここにこうしてはいないということです。だから私も、山中先生のあの言葉を胸に刻んで、思いを受け継ぎたいと思っています。

 話はもどりますが、私、学生時代に、中国や韓国からの留学生の友達がいました。とくに韓国の留学生とは何人かとても親しくなりまして、よく新宿あたりの居酒屋で遅くまで、と言うかいつも始電が動くまで、酒を酌みかわしたものです。
 あるとき、西郷隆盛の話になったんですよ。でも、けちょんけちょんにやられるんです。韓国では西郷隆盛イコール征韓論の大悪人だって言うわけです。「いやいやそれは違うよ、西郷隆盛は使節の話をしたのであって、征韓つまり韓国を征伐するなんてことは一言も言ってないよ」。そう言って一生懸命ガンバるんですけど、どうしても聞き入れない。悔しかったです。自分自身も歯がゆいし。
 そんなこともあって「西郷さんは何をめざしたのか」「何をしようとした人なのか」。私は次第に、西郷南洲の思想や哲学に関心をもつようになったんだと思います。

 さて。
 「泰平の眠りをさますジョウキセン、たった四ハイで夜もねむれず」
 幕末、アメリカ太平洋艦隊のクロフネが浦賀に来て大騒ぎになったわけですけれども、実は、それよりもずいぶん前から、ロシアがちょろちょろしておりました。
 歴史の教科書にも出てくる「寛政の三奇人」。林子平、蒲生君平、高山彦九郎の三人ですね。寛政年間というのは明治維新よりさかのぼること八十年くらい前なんですね。だから「寛政の三奇人」とは幕末よりも二世代、三世代前の人たちということになります。
 林子平は、『海国兵談』を出版して国防の充実を熱く説きました。しかし幕府はこれをとがめまして、林子平を逮捕し出版を禁止します。林子平は牢のなかで病死しました。
 蒲生君平は、海防論つまり海の守りの重要性を唱えた儒学者として有名です。
 高山彦九郎は、松前藩、北海道に渡ろうとしましたが果たせませんでした。ちなみに、 高山彦九郎は上州いまの群馬のひとです。全国を旅した勤王家で、膨大な日記を残しています。実は私、自称・高山彦九郎研究家でありまして、「高山彦九郎日記」全五巻を持っております。それを読みますと彦九郎は寛政四年に薩摩にも来ているんです。ある政治工作の目的で薩摩入りしていますが、うまくいかなかったようです。高山彦九郎は、霧島連山の高千穂峰にも登っていますし、その後、都城にも立ち寄っています。都城では、泉川という焼酎をのんで儒学者と語り合い、別れにあたって歌を詠んでいます。
「泉川酌みても尽きぬ盃のわかれてもまたあはむとぞおもふ」
彦九郎は、都城を出て京都に戻ろうとしますが、幕府の追手にギリギリと追い詰められて、最期は福岡の久留米で腹を切りました。
「朽ち果てて身は土となりはかなくも心は国をまもらむものを」
と辞世を詠んでいます。
 国士というものは憤死するんです。畳の上じゃ死ねないんです。政治というものは本来、それくらい厳しいものだということです。
 のちに西郷さんは、高山彦九郎を讃えて「回天の創業これこの人」、つまり高山彦九郎先生こそは維新の大事業の先頭に立った人なのだ、という漢詩までつくっています。
 こうして「寛政の三奇人」と呼ばれる人がでるほど、すでに、十八世紀後半には、外国が脅威に感じられていたということですね。事実、東アジアには、北からはロシアが、南からはイギリスが迫って来ていたわけです。
 そして十九世紀。何と言ってもいちばんショックだったのはアヘン戦争です。あの中国がイギリスにイイようにやられている。日本は震え上がったと思います。次は日本がやられる…。危機感はハンパじゃなかったはずです。その危機感を原動力にして、日本は明治維新を断行するわけですね。
 ですから、明治維新の初志は何かと言うと二つです。一つは「日本国の独立」を守ること。もう一つは「アジアの解放」だったと思います。西洋列強が東洋まで来て勝手なことをやっている。これは許せぬ。東洋の国々で力を合わせ、西洋列強をはねかえそう…ということですよね。

 西郷という人は「日本独立」「アジア解放」という二つの大命題を背負って、時代を生きぬいた人だったと思います。
 西郷に対する評価は人それぞれですね。学者の評価だってあっちからこっちまでいろいろあるわけです。でも、今日は「私の西郷隆盛観」ということですので、あくまでも、わたくし古川禎久なりのお話をさせていただきます。

 西郷は軍人であり、政治家であり、思想家でした。孔孟の教え・儒学を基盤にして、思想哲学を培った人ですね。そんな西郷の考え方が最もよく表れていると思うのが、これです。南洲翁遺訓の十一番。
「文明とは、道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うるところ、何が文明やら、何が野蛮やら、ちとも分らぬぞ。予かつて或人と議論せしことあり。西洋は野蛮じゃと言いしかば、否な文明ぞと争う。否な否な野蛮じゃと畳かけしに、何とてそれほどに申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇懇説諭して開明に導くべきに、左はなくして、未開蒙昧の国に対するほど、むごく残忍の事を致し、己れを利するは野蛮じゃと申せしかば、其の人、口をつぼめて言なかりきとて笑われける。」
 念のため口語訳を言いますと「文明というのは、人の道にかなうことが広く行われることを言うのであって、外見の華やかさを言うのではない。人の話を聴いていると、何が文明で、何が野蛮なのかサッパリわからない。私(西郷さんのことですよ)はかつて、ある人と議論したのだが、私が西洋は野蛮だと言ったら、相手は、いや文明だと言う。いやいや野蛮だとたたみかけると、なぜそこまで言うのかと聞くので、私はこう答えた。本当の文明ならば、未開の国には、慈愛の心をもって、丁寧に教え諭して、開明に導くべきだろう。しかしそうではなく、未開の国であればあるほど、むごく残忍なことをして、利益をむさぼろうとする。それは野蛮だろう。そう答えると相手は何も言い返せなくなったよと言って、西郷先生は笑っておられた。…」。
 文明とは人の道にかなうことが広く行われることを言うとはまさに儒教の考え方ですね。その上で、西洋は非道である。人の道から外れている、そう言ってバッサリ斬って捨てているわけです。つまり西郷は西洋近代の本質に対して醒めた、批判的な眼をもっていたと思います。西洋文明だけで人は幸せになれるものだろうか。明治政府はひたすら西洋のモノマネに走っているが、そんなことで日本は良いのだろうか…。そんな西郷の憂い・嘆きが伝わってくるような気がします。

 「西郷の思想・文明観」というのは、まず①儒学。なかでも実践行動の大事さを強調する「陽明学」ですね。
 そして②西洋近代に対して懐疑的だということ。先ほどの南洲翁遺訓のように「本当の文明じゃない」とまで言っています。
 ③アジアの解放です。西郷は島津斉彬の薫陶をうけて、日本・朝鮮・清の三国同盟つまり東アジアの連携を考えていました。これ明治維新の初志ですよね。
 それから④西郷は明治政府の近代化路線に否定的です。浮わついた西洋のモノマネで日本が良くなるとは思っていないんですね。
 西郷さんは、ハッキリ言って、明治政府とは合わないんですよ。考え方の根本に深刻なズレがある。「こんなことのために、たくさんの血を流したんじゃない…」そんな思いがどうしても強い。
 だから、維新後の西郷さんの表情は暗いんだと私は思うんです。明治維新の前と後で、西郷さんのイメージって全然ちがいますよ。幕末の西郷さんが「大暴れする」イメージならば維新後は「ひきこもる」イメージ。そう、お感じになりませんか。そうなった背景には西郷さん自身の思想哲学があると私は思っているのです。

 それではまず、いわゆる征韓論について。
 おそらくみなさんも同じだと思うんですが、私は、西郷さんが朝鮮を征伐しよう、侵略しようなんて考えたとは到底思えないんです。だってそうでしょう。西郷さんは、朝鮮や清と組んでともに西洋列強に対抗しようと考えていたんですから。
 西郷さんの真意は、明治六年の「始末書」をみれば明らかです。ここで西郷ははっきり言っています。…交際を深める目的で行くのだから、兵隊を連れていってはいけない。もし朝鮮国政府が日本の使節を受け入れなくても、粘り強く、交渉に努力すべきであって、はじめから兵隊を連れていくなんて非礼なことをしてはいけない…。つまり、道義的な姿勢でもって平和的使いとして行くんだ、というのが西郷さんです。「征韓論」なんかじゃありません。
 西郷さんは、身に寸鉄も帯びずに朝鮮に行こうと思っていたはずです。真心で話をすれば必ず相手に通じる。必ず分かってくれる…。そんな確信があったんだと思います。大胆識と大誠意、真正面から相手の懐に入る。これ、西郷さんの得意技じゃありませんか。
 西郷さんの、朝鮮行きの本当のねらいは、日朝清・東アジア三国の協力を呼びかけることにあった。自分の命のあるうちに、何としても道筋をつけておきたい、そんな切羽詰まるような思いだったに違いありません。
 …行かせたかったです。本当に残念です。

 結局、明治政府は、西郷の使節派遣の話を潰しました。
そして、なんと、わずか二年後の明治八年、江華島事件をひきおこすんです。江華島事件というのは、日本の軍艦が朝鮮国政府をわざと挑発して、軍事衝突を引き起こし、それをきっかけにして、日本に有利な条約を結ばせたという事件です。この、江華島事件以来、わざと戦争をふっかけては海外に押し出していく、というのが常套手段になるのですよ。江華島事件は、まさに明治政府がアジア侵略を始めたその第一歩だったと言えます。
 西郷は烈火のごとく怒りました。「天に恥ずべき行いだ」そう言って怒りました。きっと心の中では哭いていたと思いますよ。だって、日本のやり方は、西洋列強の手口そのものでしょう。自分が西洋からやられたことを、同じ東洋の隣国、永い付き合いのある朝鮮国に対して、やったんです。
 明治維新の初志は「日本の独立」と「アジアの解放」、このふたつだと私は申しました。しかし、我が国は、自らの手で、自らの志を裏切ったことになる。江華島事件によって、我が国は「アジア解放」という道義的な大義を失った。そればかりか結局のところ昭和二十年に「日本の独立」までも失うことになります。こうして、明治維新の初志はまったく潰えることになってしまう。その別かれ道が明治八年の江華島事件だったと私は思う。これを大失敗と言わずして何と言いますか…。

 そしてついに明治十年、西南戦争が起きました。西郷にそのつもりはなかったでしょう。が、新政府は何としても、因縁をつけてでも、西郷を潰したかったんだと思います。その意味では、西南戦争は起きるべくして起きた。
 私なりの言い方をさせていただくならば、西南戦争はつまるところ、新政府の近代化路線に対する西郷の「異議申し立て」であったし、新政府側からすれば「異議申し立て」などハナから聞くつもりはない、ただただ、力づくで西郷を葬ろうとした。これが西南戦争の顛末だったと思います。厳しい政治の現実です。
 こうして西郷は城山に斃れました。西郷は何にも言わずに黙って死んでいったんです。けれども私には、大西郷の一喝が聴こえます。令和五年の今もなお、西郷の絶叫が響きわたっている。そう思えてならないんです。

 西郷が死んで、もはや、明治政府に対して「異議申し立て」のできる者は誰もいなくなりました。そうして明治二十七年。日清戦争が勃発します。いや勃発もなにも、例のやり方で、強引に、戦争に持ちこんだというのが実態だったでしょう。
 日清戦争には伏線があります。条約改正です。幕末に西洋列強に結ばされた不平等条約があります。その改正をやりたいんですけど、陸奥宗光外相は国内議論をまとめられずに立ち往生していたわけですね。
 そこで一か八か、陸奥外相が打った一手、というのが朝鮮出兵です。当時、清が朝鮮に出兵したのに対抗して、と言うかそれを口実にして日本も出兵する。そのドサクサにまぎれて帝国議会を封じ込めて、条約改正をなしとげた。こんなハナレワザと言うのか、何と言うのか。しかも。今度はその兵隊をつかって軍事衝突に持ちこむわけです。それが日清戦争でありました。

 これには、あの、勝海舟も激怒しました。勝は、最初から朝鮮出兵には反対でしたし、朝鮮への内政干渉にも反対、もちろん清国と軍事衝突することにも反対でした。だから、日清戦争の開戦にあたって怒りの詩をつくっています。
「隣国と兵を交えるの日
其の軍 更に名無し
憐れむ可し鶏林の肉
割きて以て魯英に与う」
これは大義名分のない、不義の戦いである。しかもロシアやイギリスを利するだけの愚かな戦いだ。兄弟喧嘩などしたら、たとえ日本が勝ったとしてもアジアのためにならない…。そう言ってるんですよ。

 勝は、西郷と同じく一貫したアジア同盟論者でした。そして勝も中国や朝鮮に対する畏敬の念を決して忘れていません。「…支那は巨大な社会だ、勝ったと思ってバカにしているとトンデモナイめにあうぞ」。「朝鮮だって昔の師匠じゃないか…」。いつも、そう語っていたそうですよ。
 勝海舟にとっても、明治新政府のなりふり構わないやり方、西洋列強型の近代化路線は、どうにも我慢ならなかったのだと思います。
 日清戦争は日本の勝ちということで終わりました。下関条約で日本は清から台湾・澎湖諸島の割譲を受けます。台湾に総督府をおいて初めての植民地経営に乗り出すことになるわけです。それから朝鮮の支配も強めていって、ここを足場にして大陸侵略へとのめり込んでいくのですね。
 …私、もう、話しながら気が滅入ってきます。西洋列強も顔負けの悪どさじゃありませんか。西郷が生きていたら、こんなこと絶対に許さなかったと思いますよ。歴史にモシはありませんが、モシ、西郷が生きていたら、決して黙ってはいなかった…。

 さらに時代が下ります。今度は大正十三年、一九二四年の話です。もちろんこの頃はもう西郷も勝海舟もこの世にはおりません。この年、中国・辛亥革命の立役者・孫文が、日本で最後の講演をしています。神戸における有名な演説いわゆる大アジア主義演説です。その一部をご紹介しましょう。
 「…大アジア主義について…簡単に言えば、それは文化の問題であり、東洋文化と西洋文化の比較と衝突の問題であります。王道を語るのは仁義道徳を主張することであり、覇道を語るのは功利と強権を主張することであります。仁義道徳を語るのは、正義と公理によって人を感化することであり、功利と強権を語ることは、鉄砲と大砲をもちいて人を圧迫することであります……」
と続いていって、そして、有名な一節です。
「…あなたがた日本民族は、…いまより以後、世界文化の前途に対して、結局、西洋覇道の手先となるのか、それとも東洋王道の砦となるのか、それは、あなたがた日本民族が、慎重にお選びになればよいことであります…」
 これは、バリバリの覇権主義だった日本に対する痛烈な批判であり、同時に、忠告でもありました。でも日本は聞く耳をもたずに、そのまま覇権主義まっしぐらに突き進んで、とうとう昭和二十年に破滅した。これが歴史です。
 孫文が大アジア主義演説で語っていることは西郷南洲と通じるものがある、と私は思うのです。さきほどの西郷の言った「文明」は孫文のいう「東洋王道」。西郷の「野蛮」は孫文のいう「西洋覇道」。全く同じとまでは言いませんが、おおいに通じるものがあると思います。

 今年は、明治維新から155年目です。この155年のちょうど真ん中が昭和二十年の敗戦なんですね。前半は明治維新から敗戦までの77年間。後半は敗戦から今に至るまでの78年間です。
 あえて言うならば、前半の日本は「覇道」つまり軍事力を用いた覇権主義。で、結局は国を滅ぼします。それに対して、後半の日本は、いわば「王道」。国際協調、非軍事外交、自由貿易で経済繁栄をなしとげ、国際社会においても一定の地位を確保できた…。たいへん大雑把ですけれども、こんなふうに整理することもできるんじゃないでしょうか。
 私たちの日本は、わずか155年の間に、「覇道」と「王道」。まるで正反対の二つの生き方を経験した珍しい国である。
 歴史をこんなふうに振り返るならば、よし、これから近代国家を建設しようという矢先、早くも明治政府は舵取りを誤ってしまった。西郷の「異議申し立て」にも耳を貸さずに、破滅へ、破滅へと突き進んでいってしまった。一転して戦後は、その反省のうえに、新しい国造りをして成功した…。こんなふうに言うこともできると思うのです。
 それでは、私たち日本人が、この歴史的経験から、身をもって学んだ事とはいったい何だったのか? それは「覇権主義ではうまくいかない」「国際協調・平和と安定こそが繁栄の基礎」ということだったはずです。

 いま、ふたたび世界は激動を始めました。とくに東アジアは物騒です。こんな時代だからこそ、今一度、西郷隆盛の思想哲学に学ぶ必要がある。私はそう思うんです。

 さて、西南戦争で西郷が斃れてからあと、モノ申す人物はいなくなったのかと言えば、もちろんそんなことはありません。たとえば石橋湛山がいます。
 石橋湛山は山梨のひとです。ご存知の通り、言論人であり、思想家であり、政治家でした。戦前には東洋経済のジャーナリスト、そして戦後は第二代自由民主党総裁・第五五代内閣総理大臣でもありました。なので自民党本部に行きますと、初代総裁鳩山一郎先生の写真の横に石橋湛山先生の写真が飾られています。
 石橋湛山と言う人は、戦前戦後を通じて「帝国主義」「ブロック経済」ではダメだ。「国際協調」「自由貿易」でいくべきだ…と一貫して言っております。
 石橋湛山がジャーナリストとして書いた評論集を読むとスゴイ迫力ですよ。なかでも、いつ読んでも圧倒されるのが「一切を棄つるの覚悟」と「大日本主義の幻想」という二つの論考です。これは大正十年(一九二一年)のワシントン軍縮会議に際して書かれた論考ですが、ここで湛山が何を言ったかといいますと…、湛山はまず、日本こそが率先して軍縮会議を提案すべきだったとビシッと言った上で、日本が会議の主導権を握るためには一切を棄てる覚悟が必要だと言うのですね。つまり朝鮮、台湾、満州を手放せ。中国や樺太、シベリアからもいっさい手を引けと主張するんです。そうすれば、日本は世界で道徳的な地位を獲得できるし、西洋列強に虐げられた国々を味方につけることができる。しかも、その方が経済的にも得なんだと言って、算盤をはじいてみせて、わかりやすく説明しているんです。
 あの時代にこれだけのことを言うのは命懸けだったでしょう。結局、湛山の主張は聞き入れられませんでしたけれども、しかし歴史は湛山の主張が正しかったことをハッキリと証明していますよ。

 それから、湛山はよく、独立自尊、自主独立ということを強調しています。自主独立の精神は自由と民主主義の根幹であり、世界平和の基礎である、というようなことも言っている。
 そんな自主独立の気概の旺盛な湛山ですから、戦後、内閣総理大臣になったときにも、「アメリカの言うことをハイハイと聞くことは、日米両国のために良くない。米国と提携はするが、向米一辺倒にはならない」と堂々と言ってのけます。そのせいかどうかわかりませんが、石橋湛山内閣は、わずか二か月ほどで退陣します。これは戦後政治の大きな挫折だった、と私は思っているんです。

 余談になりますが、去る六月一日、国会内に「超党派石橋湛山研究会」が発足しました。このタイミングで、超党派による議員連盟が設立される事の意味は決して小さくはありません。しかも党派を超えて、たくさんの議員が参加していますよ。私が言うのも何なんですけども、国会も捨てたもんじゃないと思いますね。
 西郷や勝海舟のような人々、その系譜は、一見、途絶えてしまったようにも見えます。けれども、水無川の地下には脈々と水が流れていて、時に応じて、地上に流れが現われるんですよ。実際、石橋湛山のような人物が現われましたし、そして今、またこうして「超党派石橋湛山研究会」ができました。
 私はひそかに、西郷南洲の系譜は、脈々とつながっている。決して途絶えてはいない。そう思っているんです。

 さて。ここからいったん西郷隆盛をはなれます。
これからの日本の舵取りについて、一点だけ申し上げたいと思います。今、私たちの日本がかかえる問題、たくさんあります。ありますが、今日は一点にしぼります。それは、「米中対立に挟まれた日本がどうやって生き延びるか」ということです。別の言い方をすれば「日本の外交、安全保障政策をどうするか」ということです。
 アメリカと中国が対立しています。対立はだんだん激しくなっているわけですが、そもそも米中対立の本質って何でしょうか? 米ソ冷戦アメリカとソヴィエトの時のようなイデオロギー対立でしょうか? 違います。米中対立の本質は覇権争い。つまり利害関係の対立です。なので、利害が一致すれば両国はいつでも手を握り得る。
 したがって日本は、いや日本だけじゃありませんよ、韓国だって東南アジアの諸国だってみんなそうなんですけれども、米中対立に深入りしてはいけない、ということ。これがわれわれの国益であるはずです。

 かつての米ソ冷戦の時代、アメリカとソヴィエトは、対立はしても直接対決することはありませんでした。核戦争になりますからね。同じような意味で、この先、アメリカと中国が直接、砲火を交えることは基本的には無いだろうと思います。
 もし衝突するとすれば、そのとき矢面に立たされるのは日本です。戦火に焼かれるのは日本です。最悪の場合、国を失うことだってありうる。
 仮に、いわゆる台湾有事が起きたとします。在日米軍基地から米軍が出撃する、となれば、日本は自動的に戦争当事国になります。戦争に巻き込まれるんじゃなくて、戦争の主体になるわけです。
 現代の戦争は、大砲やミサイルという前に宇宙・サイバー・電磁波といった新しい領域での戦いです。たとえば自衛隊基地や米軍基地への送電が断たれる、原子力発電所の電源が断たれる、なんて事態は当然想定しておかなければいけません。新幹線が暴走を始める、航空機の離発着ができなくなる、上水道の水源に有毒物質が投入される、下水道が破壊されて都心に下水があふれる…。交通インフラ、通信インフラが破壊されたら、医療だって食料だって、サプライチェーンは簡単に止まってしまう。こんな脆弱な日本が、そもそも戦争当事国たりえるのかということです。
 実地戦だってありえますよ。ウクライナみたいに。そうなった場合アメリカが一緒に戦うわけではありません。アメリカと中国は、直接、戦いませんから。
 言ってしまえば、日本は勝つことも負けることもできない。つまり私たちは国を失うことも、分断されることもあり得る。

 だから「戦争回避」なんです。日本の唯一の選択肢は、戦争回避。これしかありません。だから外交なんです。戦争回避のための外交に全力をあげなければならない。
 戦後、安全保障をアメリカに委ねてきた日本が、はたして自分の足で立ち、自分の意志で、自主外交を展開できるのかどうなのか。ここが生き残りのカギになります。
 いま私たちに必要なのは、自主自立の精神、そして時代を見渡す大きな視座。それと思想哲学です。
 一九七二年、昭和四七年に日中国交回復が実現しました。当時、日本側は田中角栄総理、大平正芳外務大臣です。中国側は毛沢東国家主席、周恩来首相でした。そのときの「日中共同声明」第三項には、台湾をめぐる考え方の原則が織り込まれています。その心を簡単に言うならば「中国と台湾が平和的な話し合いで一つになるのなら、日本はこれを受け入れますよ」ということです。
 したがって日本は、日中共同声明にしっかりと軸足をおいて、中国に対しては「力づくじゃダメですよ」と言わなきゃならないし、返す刀でアメリカには「煽っちゃダメですよ」と言わなきゃいけません。実際アメリカと中国はよく分かっていると思います。激しいやり取りをしていても、この点については、お互い微妙に気をつかって慎重にやっているように見えますよ。
 むしろ心配なのは日本です。日本の政治家のなかには、台湾有事をめぐって勇ましいことを言う人がいる。与党にも野党にもいる。でも、本当に台湾有事になったら、その先、どうやって日本を守るつもりなのか。どう考えているのか…。政治家というのは煽ってもいけない、煽られてもいけないんです。

 いまの中国、まさに覇権主義です。大アジア主義演説での孫文の忠告、「王道か覇道か」の問いは、そっくりそのまま、今の中国にあてはまるように思いますね。
なので今度は、日本が中国に言う番ですよ。「覇道ではうまくいきません。国際協調でいくべきです」。でも中国はこう言うでしょう。「帝国主義であれだけ目茶苦茶やった日本にそんなこと言う資格があるのか」って。
 それでもなお日本は言うべきである。「かつて日本は覇権主義で大失敗しました。だからこそ、覇権主義の愚かさを身に沁みて知っているんです。だから言うのです」と。
 もちろん中国が「あゝなるほど」と言って素直に耳を傾けるとは思いません。思いませんが、それでも日本は粘り強く、誠意を以て語りかけるべきである。
われわれ日本人に、自らの非を非と認めるだけの勇気があって、本当の意味での自信があるのならば、言えないはずはないのです。
 そして、その真摯な姿を国際社会に見せることが大事だと思う。日本はスジの通った主張を貫いている国だ、国際社会といっしょに戦争回避に努力する国だ。そんな道徳的な旗をしっかり立てて、まっすぐに中国と向き合っていく…。
 私はですね、西郷さんだったら、きっとそんなふうに考えるんじゃないかと思っているんです。みなさんは、どうお考えになりますか?

 ここ数年にわたって、私の頭から去ることのない問題意識は、「米中対立に挟まれた日本がどうやって生き延びるか?」ということです。ひとつ間違えば、国を失うかもしれない。かわいい子どもや孫にふるさと日本を手渡せないかもしれない…。ならばどうすべきか? ということです。
 なぜなら、いつの間にか私たちの東アジアが極めて危険な状況になっているからです。「日米同盟」対「中国」とか、「日米韓」対「中朝露」とか。いつの間にか、二極対立的な対決構図にひきずりこまれている…。
 何とかこの局面を変えたいんです。「分断・対立」から「国際協調・多国間主義・ルールに基づく国際秩序・戦争回避・平和と安定」へと変えたいのです。

 十八世紀から二十世紀にかけての東アジアも大変厳しかった。だから私たちの先輩は、もがき苦しみ、甚大な犠牲を払いながら、歴史を刻んできた。それら先輩方の血と汗のあゆみを、後世に生きる私が一言のもとに否定するなんてつもりは毛頭ありませんし、そんなことはできるはずもありません。
 ただ、いつの時代であれ、指導的立場にある者が国の舵取りを誤った場合、傷はその時代のみならず、後々の世まであとを引くものだということを忘れてはいけない。歴史は無限責任なのですから。
 いまふたたび世界が激しく動きだし、特に東アジアが物騒になってきました。私たちは二度と失敗はできません。勇ましいコトバに惑わされたり、時代の空気に呑まれたり、流されたりして、舵取りを誤ってはいけないんです。
 そのためにこそ西郷さんいや西郷先生の生き様をなぞって歴史をふりかえり、一段高い処から見つめ直し、それをヒントにして、これからの日本の舵取りを考えたい。それが本日、私の申し上げたかったことです。

 いま世界は、深刻な状況にあります。格差と貧困、分断と対立、資本主義の限界。なによりも地球温暖化いや沸騰化ですね。人類は本当に滅びるかもしれない…という状況に追い詰められました。で、私はですね、これらの深刻な事態は、いずれも西洋近代の行き着く処、行き着いた姿だと思っているんです。したがって私たちがこの先、生き延びていけるか。それはひとえに私たちが、「西洋近代」を超えて、新しい「平和共存の思想哲学」を構築できるかどうか。ここにかかっていると思います。
 その意味でも、西洋近代に懐疑的な眼をもちつづけた大西郷に学ぶ意味は、かぎりなく大きいと思いますし、その原点に立つことが、西郷先生につづく道だと信じます。

 最後に、私の大好きな、西郷南洲の漢詩を一つだけご紹介して終わります。 明治五年、アメリカに留学する甥っ子に贈った五言律詩です。「外甥、政直に示す」。
一貫唯唯諾 従来鉄石肝
貧居生傑士 勲業顕多難
耐雪梅花麗 経霜楓葉丹
如能識天意 豈敢自謀安

 一貫唯唯ノ諾
 従来鉄石ノ肝
 貧居傑士ヲ生ジ
 勲業多難ニ顕ル
 雪ニ耐エテ梅花麗シク
 霜ヲ経テ楓葉丹シ
 モシ能ク天意ヲ識ラバ
 豈ニ敢エテ自ラ安キヲ謀ラムヤ

一旦心に決めたことは、どこまでも貫き通せ
これまでのように強い精神を持ち続けよ
貧乏な家にすぐれた人物が生まれ
多くの困難をのりこえて大事業は成就する
梅の花は冷たい雪に耐えてこそ美しく咲き
楓は霜をしのいでこそ真っ赤にもみじする
もし、この自然の理を理解できるならば
どうして自分の安楽など求めるだろうか

ありがとうございました。