2020.10.8 「戦戦競競」

2020.6.17 世界は変わる

2020.4.27 日本の食料は?

2020.2.12 86万4千人

2020.2.1 国の独立

日本と韓国、共通の志

2020.10.20

 米ソ冷戦は、世界を分けたイデオロギー対立であった。日本は、迷うことなく西側陣営に属したし、その判断は正しかった。
 ところで、今回の米中対立はイデオロギー対立ではない。国益と国益のぶつかり合い、つまり覇権争いがその実相である。なので、利害さえ一致すれば米中はいつでも手を握ると考えておかねばならない。よって、覇権争いの外にいる第三者は、不用意にかかわってはならぬ。下手に一方へ過剰依存したり、一体化などと言って深入りすれば、国を失う破目に陥る。

 米中対立がエスカレートするなかで、日本のとるべき道は、「米中のどちらに与するか?」ではなく、「米中どちらにも与しない」という独立自尊の自立路線である。この選択肢しかないことを、厳しい覚悟をもって胸に刻むべきである。

 同じく、米中二大国に挟まれたかっこうの韓国にも、同様のことが言えるはずだ。日本にとっても、韓国にとっても、米中覇権争いの渦に呑みこまれぬことが何より肝要である。わたしたちは今、日韓「連携」こそが日韓共通の「利益」であることをハッキリと認識すべきだと思う。
 それにしても、日本と韓国のいがみ合いには眼を覆うばかりだ。何か事が起こるたびに両国世論が沸騰しさらに関係が悪化する、という負のスパイラルに陥っている。もう、このまま放置するわけにはいかない。

 負のスパイラル構造から脱け出すために、ここで一つの提案をしたい。
 それは両国が、一致せぬことより一致することに力を注ぐことである。「対立」「いがみ合い」よりも「連携」「利益」に眼をむけるのだ。
 大きく変わりつつある北東アジア情勢だが、ここに“平和と安定”を築くことは、日本にも韓国にも死活的に重要な利益であるはずだ。日韓が「連携」して、北東アジアにおいて日本・韓国・中国・米国・北朝鮮・モンゴル・ロシアの七か国による多国間協議、ひいては集団安全保障の枠組み構築をめざすのだ。“北東アジアの平和と安定”という志を共有したとき、われわれは文字通り“同志”となれるだろう。

 先日、日本と韓国の学者・政治家によるオンライン会議が行われた。そこでの小倉和夫氏(元駐韓国大使)の言葉が胸に響いた。
 『日韓はテーブル越しに向き合っているのではない。横に並んで座っているのです。テーブルの向こう側は世界であり、日韓はともに協力して世界と向き合うべきなのです。』と。

新しい「列島改造論」

2020.10.16

 『日本列島改造論』を掲げた、あの田中角栄元総理ですら為しえなかった“一極集中の是正”だが、今なら、ひょっとしたら、できるかもしれない。そう感じるのは、時代が大きく変わってきたからだ。
 産業革命以来の、効率性重視の西洋近代文明が行き詰るにしたがって、世界中が、なにか新しい“価値”を見出そうとしているようにみえる。その“価値”とは、効率ばかりでは得られない何か、効率を追求したために失った何かだと言えようが、たいそう難しい話になりそうなので、ここでは深入りしない。
 とにかく、効率性追求の必然たる「一極集中」は、“効率性が全て”でなくなれば、また変わりうる。日本においても「一極集中型」から「分散自立型」へと列島改造のチャンスが出てくる。

 「分散自立型」とは、日本列島の随所で、地域社会がたくましく自立している姿だ。自立に何が必要かというと、まず何と言っても、生産活動、富の創出だろうと思う。シンプルに考えて、人の生存に不可欠な物資は「水」「食料」「エネルギー」だから、これらの自活が目印とされてしかるべきだ。幕藩時代の藩経営がそうだった。当時、「食」も「水」も「エネルギー」も完全自活が要求されたはずだ。
 幕藩時代にもどろうとまでは言わないが、たとえば地方自治体は可能な限り、自給率を高める努力を義務付けられる、というのはどうだろう。ブロック単位ではより高い水準の自活努力が義務付けられる、とするのだ。もちろん、努力義務だけではなく、国をあげて、生産・調達を全面バックアップする法律・税制・ファイナンスの仕組を用意する。つまり、地域が地域資源をフル活用するよう促すのだ。

 そうして創出された富は、可能な限り、地域に還元されなければならない。
 たとえばデンマークでは風力発電に地域の出資15%が義務付けられているが、これによって、少なくとも15%分の便益は地域に還元されるのである。同じように、「食」であれ、「水」であれ、「エネルギー」であれ、生産にあたって地域資本を如何に活用するかは重要なポイントであり、ここが自立経済の第一歩だと考えている。
 得られた富を、地域でグルグルと循環させることも重要だ。「カネは天下のまわりもの」と言うが、「まわす」ことで波及効果がうまれ、雇用創出につながる。宮崎県都城市の実践は良いお手本になっている。公共事業を地元企業中心に発注することで経済効果は数倍になった。

 日本は、年間に「食料」を約8兆円、「エネルギー(石油・石炭・天然ガス)」を約20兆円輸入している。いずれも、国民が額に汗して稼いだ外貨での購入だ。日本人は一生懸命に働いているのに、なぜ豊かさを実感できないのか?…その理由はこんなところにあるのかもしれない。日本列島の資源をフル活用できれば、そのぶん輸入は不要となり、それだけ国民は豊かになるのだ。
 地域が、地域資源をじょうずに活かして自立経済を実現する。その努力の積み重ねで、豊かで逞しい「分散自立型の日本列島」ができる。たとえ中央政府が借金で潰れることがあっても、しっかり大地に根をはった地域が「分散自立」している限り、われらが日本は大丈夫なのである。

続・日本の食料は?

2020.10.12

 「今年のノーベル平和賞は、国連の世界食糧計画(WFP)に授与される。」
ニュースを聴いて、なるほどと思った。世界の食糧事情は悪化しているし、解決には国際社会の協力が不可欠である。あらためて、国際社会に警鐘を鳴らすためのノーベル平和賞なのだ。

 これからの時代、日本の食料事情もさらに厳しくなる。当然、新しい食料政策が必要になろう。
 たとえば「気候変動」にどう適応するのか。今年もそうだったが、すでに梅雨は長期化しはじめている。これからは梅雨というより雨季のようになるらしい。西南日本が“亜熱帯”になれば、当然ながらその農業のあり様も変わる。そして、日本列島全体で同様のことがおきる。全国的に気温が上昇するのだから適地適作も変わっていかざるをえない。「気候変動」を見越した食料政策が必要である。

 「脱石油」にはどう対応するのか。現代農業は、機械を動かすのも石油。化学肥料も石油。輸送や冷蔵のサプライチェーンも石油に依存する。しかし世界は「脱石油」へと向かっている。日本農業だけ石油頼みとはいかぬ。この先、生産から供給までがそっくり変わるのだ。
 実は、一滴の石油も使わぬ、太陽光と水だけの食料生産技術が確立されている。宮崎大学・西岡教授の研究成果を見学して、わたしも大いに昂奮した一人だ。このような、人類の未来に希望を与える研究や事業は随所で始まっていることと思う。しかし、“全体像”はまだ描ききれていない。

 輸入すれば良いじゃないか、と言う人は今でもけっこう多い。
 戦後日本は、経済発展を目標にかかげ、我武者羅に効率性を追いかけた。食料は輸入の方が効率的だとされ、国内農業の衰退は見て見ぬふりをされた。その結果が、今日の食料輸入大国ニッポンである。約9兆円の国内生産に対し、輸入は約8兆円。なんと約半分を海外に依存する、イビツで脆弱な国になり果てた。
 だが、日本の「国力」はこれから徐々に失われる。輸入すれば良いじゃないか…などと呑気なことは、もう言えないのだ。

 ノーベル平和賞にこめられたメッセージをうけとめよう。新しい食料安全保障に舵をきるときが来ていると思う。

「戦戦競競」

2020.10.8

 宮澤喜一元総理は「薄氷をふむが如くせよ」と口癖のように言った…と、以前、何かの記事で読んだ。「戦戦兢兢 如臨深淵 如履薄氷(深い淵をのぞくように、薄い氷を歩くように、慎重に謙虚にせよ)」という『詩経』の一節からの引用で、つまり宮澤元総理は、謙抑的な権力運用を心がけ、政権を預かることへのおそれとつつしみを失わぬよう自戒しておられた、ということだろう。

 権力者が力任せにやろうと思えば何事もやれる。けれども為政者に、おそれとつつしみの心がなければ、国民は心服できないのではないか。政治は力だと言われるが、力だけでは永続きはしまい。それは歴史をみれば明らかだ。
 
 保守政治の本質は「寛容」である。「異なる意見にも耳を傾ける度量」と言い換えてもよい。それを制度的に保障するのが「自由」なのだと思う。思想信条の「自由」、学問の「自由」、信教の「自由」、表現の「自由」、言論の「自由」、報道の「自由」…。
 いま果たして、わたしたちの社会において、これらの「自由」が活き活きとしているか。たとえば政治や行政の現場において。たとえばジャーナリズム、メディア報道において。あるいはネット上において。どうか。

 「世界報道の自由度ランキング」で、日本は第66位(2020年)だった。2013年以降ずっと低順位が続いていることを、わたしたちはもっと深刻に受けとめるべきだろう。
 先日、海外で勤務する知人から、驚くべきことを聞いた。香港弾圧問題にコメントする日本が国際社会から冷ややかに見られているというのだ。つまり、“目くそ鼻くそ”という意味である。背筋がゾッとする話ではないか。

「米中冷戦」にあらず

2020.8.17

 米国ポンペオ国務長官は7月23日、演説で「全体主義イデオロギーの中国を、民主主義陣営で包囲しよう」と呼びかけた。この、あたかも「米中冷戦」が始まったかのような物言いに、わたしは危うさを感じる。

 パリ協定から離脱、イラン核合意からも離脱、WHOからも離脱の構えをみせるトランプ政権が、唐突に「新たな同盟を」と呼びかけたところで説得力に欠ける。しかもポンぺオ演説には、議会内にも共和党内にも政権内にも異論があるというし、国際社会においても賛同国はさほど多くない。ポンぺオ演説を額面通りに、というわけにはいかない。

 思えば、トランプ政権が誕生した頃は盛んに「貿易戦争」と言った。それがいつしか「ハイテク・安全保障の戦い」と言うようになり、今回のポンぺオ演説では「イデオロギー対立」と言うに至った。
 だが、ホントウだろうか。世界はホントウに、全体主義vs民主主義で対立しているか。かつての米ソ冷戦のようにイデオロギーで陣営対立しているのか。そうではなかろう。
 米中対立の実態は、あくまでも「覇権争い」である。米国の国益と、中国の国益とのぶつかり合いなのである。両国は激しくせめぎ合うが、利害が一致すればいつでも手を握りうる。

 かつての米ソ冷戦では、日本は西側陣営の一員であったし、それは妥当な選択だったと思う。
 だが、いまの米中対立は「冷戦」ではなく、したがって日本が「どちらの陣営に立つか」と迫られる話ではない。それは、あくまでも他国の「覇権争い」なのである。対立のあおりを受けることはあっても、日本が主体的にかかわるべき話ではないのだ。

核兵器禁止条約に署名すべし

2020.8.12

 8月は、6日の「ヒロシマの日」、9日の「ナガサキの日」に合わせて、テレビでも多くの特集番組が組まれる。実録フィルム映像や証言を聴きながら、あらためて原爆の非道を思わずにはいられない。核兵器は人間に与えられた可動領域を超えている。理屈ぬきに「否」と言うべきである。

 3年前、国連で核兵器禁止条約が採択されたが、署名国が50に届かず、未発効のままだ。日本政府は米国の「核の傘」(実際は破れ傘なのだけれども…)の下にあることに遠慮して、禁止条約に署名せずにいる。
 だが、そんな次元の話ではないのではないか。世界で唯一の被爆国として、日本には核兵器に「否」という義務があるだろう。日本は(日本政府は、と言うべきか)何かに委縮して、生来の直観や感性・感情に蓋をしている。自らの本心に嘘を言っている。

 人間は、日々現実を生きるとは言え、理想を求めてやまぬ生き物でもある。だからこそ成熟もすれば、進歩もするし、時代もまた変わりゆく。大転換の今こそ、わたしたち日本人はもっともっと理想を語り、大風呂敷を広げていいのではないか。わたしの耳には、どこからともなく、「日本人よ、小さくなるな。小さくなるな。」という声が聞こえている。

 「核兵器禁止条約」発効まで、あと6か国。日本政府は、ひととして素直になって、核兵器禁止条約に署名すべきだと思う。

「敵基地攻撃能力」の愚

2020.8.11

 4日、自民党が「敵基地攻撃能力」の保有を政府に提言した。

 そもそも敵基地攻撃が「憲法上許されるか?」「自衛権の範囲か?」については議論のあるところだ。仮に、許容されるとしても、では「どのような場合、どのような方法で攻撃できるか?」と具体的な攻撃態様を規定しなければならない。が、それは現実には難しい。
 仮に、この論点がクリアできたとしよう。その場合、「軍略上のメリットは何か?デメリットは?」という本質的な考察が必要となる。トータルで考えたらデメリットの方が大きかったということになるかもしれない。仮に、メリット大とされたとしても、さらに、「どれほどの装備、人員が必要か?」「何年かかるか?」「予算は?」が検討されなければならないし、最終的には、「わが国がとるべき方策か否か?」という政治決断と、国民的合意が必要となる。つまり、簡単な話ではないということだ。

 わたしは、断乎として反対である。いかに自衛と言い、いかに中朝がと言おうとも、「敵基地攻撃能力」が周辺国へ向けた軍事的攻撃力であることに変わりはない。相手からすれば首都までも射程に入ったと警戒するのは当然で、軍拡競争のきっかけになりこそすれ抑止力になると安直に考えるべきではない。わが国にとって最大の安全保障とは、アジア諸国に敵意を抱かせない外交を展開し、「日本はなくてはならない国だ」との信頼を得ることのはずだ。
 何よりも、「敵基地攻撃能力」を保有した場合、わたしたちの日本はとてつもなく大事なものを失う。それは、「非軍事外交」「平和国家」という戦後日本の“いきざま”である。“いきざま”によって築かれた信頼である。アジアに侵略し、多大の損害と苦痛を与えた挙句に大日本帝国は滅びた。ゆえに戦後日本は、アジア諸国の軍事的脅威とならぬことを決意し、「非軍事外交」「平和国家」を国是に掲げ、国際貢献に汗をかきながら75年を歩んできた。今ここで「攻撃能力」を保有してしまえば、戦後日本の努力は水泡に帰す。
 
 日本の役割は、東アジアにおいて「平和と安定」を創りだすことにある。諸国に、紛争回避メカニズム構築を呼びかけるべき日本が、自ら軍拡競争の罠にはまっては説得力もなにもなかろう。
 日本はアジアの国である。アジアにおいて、諸国の信頼を得られずして日本に未来はない。いま安全保障環境が厳しいからこそ、なおいっそう「平和と安定」に汗をかくことだ。これが日本への信頼につながり、ひいては日本を守ることになる。

日本はどう生きるか (その1)~拠って立つところ~

2020.7.22

 世界を見わたすと、超大国アメリカが内向きになりプレゼンスを縮小させる一方で、覇権主義の中国がめざましい勢いで台頭している。国力を失いつつある日本にとって、見通しのきかない実にやっかいな時代となった。

 日本はどう生きるべきか。その答を出すには、まず、日本がどんな国なのかを見つめ直すことが大事だ。
 近代化以降、帝国主義に手を染め軍事力をもって海外に展開し、世界に孤立して破滅するまでの戦前の歴史。それから、「平和国家」を標榜し、軍事力ではなく法律や規則、外交交渉や国際協調をむねとして、自由貿易の恩恵を受けて経済発展を成し遂げ、国際貢献にも尽力してきた戦後の歴史。わずか150年ほどの間に、正反対の二つの生き方を経験した日本が、ここから学んだ事とは何か。
 それは、平和と安定なくして国家の繁栄はない、ということではなかったか。この一事を学び取るために、先人のおびただしい血と汗が流されてきた。わたしたちは、この厳然たる歴史を静かに振り返り、その教訓に拠って立ちながら、日本の針路を考えるべきだと思う。

 二つの超大国に挟まれた日本。どんな生存戦略を描くべきか。ザックリ言って選択肢は三つあると思う。第一に対米追従。第二に対中連携。第三に自立路線。いずれが日本の進むべき道か。

日本はどう生きるか (その2)~対米追従か~

2020.7.22

 米国と一体化して中国の脅威に対抗する。この選択肢は、まさに今の政府・自民党のとるところだ。しかし古今東西を見わたして、主権国家が他国に追従することで生き残った、などという話を聞いたことがない。あるとすれば、それは保護国であり属国と呼ばれるべきものであって、主権国家、独立国家ではあるまい。

 わたしたち日本人の意識の中には、米国に守ってもらっている…という考えが相当程度に浸透しているようだが、これは、一方的な思い込みにすぎない。厳しいリアリズムの支配する国際社会において、自国の利益を減じてまで他国のために犠牲を払う国など存在しない。それは米国が、尖閣列島の「領有」について中立を決め込んでいることからも、「核の傘」がほとんど破れ傘であることからも、明らかだ。

 外国頼みに狎れると、“アメリカさんの要求は断れない…”などという卑屈なメンタリティに陥る。ハッキリ言って今がそうだ。
 今年一月、米国の要求を断れずに、海上自衛隊部隊を中東海域に派遣した。政府は、日本船舶を守るためと説明するが、取って付けた言い訳にすぎない。今こうしている間も、海自艦は中東海域を遊弋しているのだから、いつなんどき、何かをきっかけに、米国とイランの紛争に巻き込まれるかわからない。仮にそうなれば、日本は名実ともに立派な戦争当事国となる。もちろん、米国はそれを望んでいるだろう。
 かくして、“米国の要求は断れない…”“仕方がない…”などと言っているうちに、「平和国家」「非軍事外交」という戦後日本の国是を捨て去って、果てしない対米追従の道を行く日本。気がつけば、キリスト対イスラムの千年抗争に「米国十字軍」として動員されようとしている。わが国はいま、そんな危いところにいる。
 しかし、こんなことを国民が望んでいるか。いったい誰が、いかなる責任において、国民を巻き込もうというのか。対米追従路線は、この先行き止まりの袋小路である。日本の進むべき道ではない。

 わたしは何も、米国と喧嘩しようと言うのではない。日米関係が重要なればこそ、本当の信頼関係をと言いたいのだ。
 トランプ大統領の暴露本で明らかになったように、日米安保条約はすでに歴史的な役割を終えている。それにもかかわらず、体形に合わなくなった洋服に無理に体を合わせようとして、日本はどんどん卑屈になっていく。いったい何のための条約なのか、もう自分でも分らなくなっているようにみえる。

 新しい時代に相応しい日米関係を構築するときが来ている。

日本はどう生きるか (その3)~対中連携か~

2020.7.22

 それでは中国と連携するか。言うまでもなく、この選択肢もとりえない。

 統一と分裂割拠をくりかえすのが中国の歴史だが、その長い歴史のなかで幾たびか、日本は中国との向き合い方に苦悩してきた。いまこそ日本は、この歴史的知見を活かすべきだ。中国の脅威に怯えるあまり、日米同盟で中国封じ込めよ…などと声高に叫ぶような、了見の狭いことでは国を誤る。

 香港にみるように、中国はいま、強権的・独裁的な傾向を強めている。一見それは中国の強大化そのもののように見えるが、実はもろさの顕れのようにも思える。なぜなら、自由と民主主義をあまりに軽んじているからだ。
 ある国家が、たとえば危機に瀕したとする。そのとき、ありったけの叡智を集められるかどうかが一国の命運を左右するだろう。そして、叡智を集められるかどうかは、その国において自由と民主主義が保障されているかどうかにかかっている。強権的・独裁的な国は、一見強そうに見えても実はもろい。

 それ以上に大事なのは、ひとは誰からも管理されず、自らの意思で生きる天賦の権利を有するということだ。自由を希求するのは、ひととして当然のことであり、中国政府がいくら力づくで抑えようとも、香港人の自由への渇望を消し去ることはできない。これはウイグルや、チベットについても同様だ。
 日本は今、香港の自由と民主主義を奪った中国政府を、声を大にして非難しなければならない。誰かの自由が奪われるのを見て見ぬふりするならば、いずれ己の自由をも失うことになる。

 いわゆる大アジア主義演説(1924年)のなかで孫文は、『今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことだ』と説いた。しかし日本は聴く耳を持たず、結局のところ、世界で孤立し破滅した。
 今あらためて考えてみると、孫文の大アジア主義演説は、日本帝国主義への痛烈な非難であったと同時に、今日の覇権主義中国への鋭い警告のようでもある。
 つまり日本は、「覇権主義による繁栄は永続きしない」という教訓を、真正面から中国に語るべきである。孫文がそうしたように。きっと中国は言うだろう、日本にそんなことを言う資格があるのか、と。それでも日本は、歴史における自らの非をきちんと認め、悔いるべきを悔い、そのうえで言うべきを言えばよい。
 日本が、自らを見つめ直し、自立する国であるならば、つまり本当の自信があるならば、中国と正面から向き合えるはずだ。

日本はどう生きるか (その4)~自立路線~

2020.7.22

 日本はどう生きるか。結局、最後の選択肢が残った。つまり日本は、米国と中国の二大スーパーパワーに挟まれながら、しかしそれぞれとの「間合い」をとりつつ、ありとあらゆる外交努力を重ね、国の独立を守る。これ以外にないということだ。

 自主防衛なんてホントウにできるのか…という心配の声もあるだろう。けれども自国だけで国防が可能なのは米国くらいのものだ。どの国であれ、軍事力だけでなく外交力、経済力、文化力、国際世論、何よりも自主独立の気概、これら総力をあげて国の独立を守っているではないか。なぜ、はじめから、日本にはできないと考えるのか。
 日本に欠けているのは能力ではなく気概である。敗戦後の日本は、主権の一部を放棄し、安全保障を米国に委ねてやってきた。いつの間にか、思考停止に陥り、世界はこうあるべきだ、日本はこうしたいという理念も信念も無くしてしまった。自主独立の気概を失った日本が、これからの激動の世界を生きぬけるとは思えない。

 いま必要なのは、いったん立ち止まって、自分自身を見つめ直すことだ。平和と安定の尊さを、日本は身をもって学んだ。ならば、その理念を確固たるものにして、国際社会のなかで、スジの通った主張をし、かつ行動すべきだ。「核兵器は廃絶すべし」と堂々と言えばいいし、「中東に自衛隊は出さない」と言って断ればいい。「敵基地攻撃能力」などは愚の骨頂。自らの信念を自らの言葉で語るならば、日本外交はかならずや説得力をもつ。国際社会はしっかりと見ている。
 辛かろうが、苦しかろうが、のたうちまわりながらでも、自主独立を守り抜く。いつの時代も変わらぬ原理原則である。わたしたちは、戦争と敗戦のショック状態から脱し、国家として立ち直る時期にきていると思う。

 ところで、仲間はいないよりいた方がいい。米中の二大ショッピングセンターに挟まれた日本を「鮨屋」にたとえるならば、世界には「焼肉屋」もあれば「ラーメン屋」もある。「カレー屋」も、「パスタ屋」も、「ワインバー」、「ビアホール」だってある。みんなで連携して「商店会」をつくり、「鮨屋」はその一会員として(できれば副会長くらいになって)一生懸命、汗をかくことだ。

 日本は、真の独立国と言えないまま、今日まで来てしまった。だが、これからの世界情勢は、半独立国家の生存を許さないだろう。
 一国の独立は、民族的熱狂なくしては成し遂げられない。国民の魂が、揺さぶり揺さぶられ共鳴し合うようなエネルギーがなければ、国家主権は回復できるものではない。まずは、ひとりでも多くの日本人が事実を知ることだ。知ることで魂に火がつき、いったんついた火は消えない。そして必ず燃えひろがる。わたしたちの眼の黒いうちに、かならずやり遂げたい。

日本はどう生きるか (その5)~政治はどうあるべきか~

2020.7.22

 新型コロナ・パンデミックの展開次第によっては、バブルに支えられた世界経済はどうなるかわからない。財政ファイナンスの日本が無傷でいられるはずもなく、通貨下落と超高インフレ、大失業に見舞われる可能性もなくはない。巨大地震だってそう遠くないのだ。わたしたちは、これからが国難のオンパレードだと覚悟すべきだ。

 みんなで国難をのりこえるには、政治への信頼が欠かせない。これがいちばん大事だと言ってもいい。しかし今、まさにその信頼が失われている。生活苦による不満のマグマが膨らんでいって、ここに政治不信が引火したらどうなるか。歴史は、破滅的なポピュリズムの生まれ得ることを警告している。
 政党政治に、信頼を取り戻さなければならない。自民党は、寛容で、度量のある、本来の保守政治に回帰すべきだ。国民の不安を抱きとめながら、野党にも協力をよびかけ、知事や首長などとも連携すればいい。国をあげて、みんなで国難に当たるという姿をしめすことが大事だ。

 いま政治がめざすべきは、戦後政治の総点検、そして大転換だ。外交も、安全保障も、経済政策、食料、エネルギー、通貨、教育、環境、国土政策、住宅都市、社会保障、防災…それぞれの分野において、これまでの諸政策を総点検し、新しい時代にふさわしい目標におきなおす。
 日本人はガイアツがないと変われない…と言われるが、たしかに、一度決まったことを変えるのは大の苦手だ。だがこれは、わたしたちの重大な弱点である。
 文明史的スケールで転換期を迎えている今、わたしたち日本人は、自らすすんで、おのれの弱点を克服しなければならない。自主自立の気概さえあれば、日本人にはできると信じる。

先手を打つという発想

2020.7.7

 「数十年に一度…」どころか、すでに猛烈豪雨は頻発しているし、状況は年々悪化している。いよいよ気候危機というモンスターがその姿を現しはじめた。
 災害への向き合い方も考えなければならない。「避難」→「復旧」→「復興」という対応だけでなく、「先手を打つ」ことも必要ではないか。たとえば、“防災転居”だ。被災のおそれがあり、住民が望む場合には、転居を支援すべきだと思う。すでに補助事業が用意されてはいるが不十分だ。さらに、税制や保険、金融面における支援の仕組みを手厚く整えるべきである。

自ら変革するとき ~脱炭素~

2020.7.2

 「新型コロナウイルスは人類にとって最も緊急性の高い脅威だ。しかし、長期にわたる最大の脅威は気候変動問題であることを忘れてはならない。」(国連気候変動枠組条約締結国会議・エスピノサ事務局長)

 気候変動に起因する災害、食料、保健衛生、感染症などのリスクは想像していた以上に大きい。人類の生存にかかわるほどに深刻だ。だから世界は気候危機に正面から向き合い、動き出したのだ。とくに欧州は、脱炭素を明確に打ち出し、行動を開始している。

 もはや止まることのない世界の流れ。乗れなければ孤立する。日本も迷わず「脱炭素」に本腰をいれるべきだ。そうすれば、高い技術力と文明観をもつ日本人のことだ、必ずや世界をリードし、立派にやっていくだろう。

 だが、日本はハラをくくれない。この春も、パリ協定で求められた高い削減目標への改定ができず、国際社会を失望させた。エネルギー基本計画で2030年の電力構成が決まっているので変えられない…というわけだ。しかしこの電力構成、とても現実的な数字だとは思えない。つまり、変えない理由になっていないのだ。

 「いったん決まったことは変えられない…」、「クロフネ、ガイアツなしに自ら変革できない…」、これは、わたしたち日本人の弱点である。
 この際わたしたちは、脱炭素という大目標にむかって舵をきるべきだ。これは、自ら変革すること、弱点を克服することでもある。

主権国家としての危うさ

2020.6.24

 そんなことだろうと思ってはいたが、元側近の「回顧録」でトランプ外交の舞台裏を知らされると、やはりショックを禁じ得ない。今日は、3点だけ触れておきたい。

 まず第1点。昨年6月、こともあろうにトランプ大統領は、自身の再選のために、ウイグル人権弾圧問題を“取引”材料に使った。見返りとして、中国の国家主席に「ウイグル人強制収容は正しい、収容所を建設すべきだ」と述べたという。なんたることだ。
 ウイグルの民の絶望を思えば、黙っているわけにはいかない。間髪入れずに、トランプ大統領と中国政府の非を鳴らさねばならない。

 第2点。北朝鮮ミサイルに関しても、トランプ大統領は「中距離ミサイルはあった方が良い、日本が武器を買うからだ」と述べたとされる。事実ならば、同盟国への許されざる背信である。わが国は断乎として抗議し、日米安保条約の見直しを通告せねばならぬ。条約の前提が崩れたのだから。

 そして第3点。在日駐留軍経費のうち、現行1920億円相当の部分を4倍以上の8500億円に増額要求するにあたって、トランプ大統領は「在日米軍をすべて撤退させると言って日本を脅せ」と指示したとされる。これは、わが国に対するこの上ない侮辱であり、聞き捨てならぬ一言である。“売り言葉に買い言葉”としてではなく、ここで真正面から、「撤退していただいて結構です」と返すべきである。思うに、日米安保条約・地位協定はそもそもの歴史的役割を終えつつある。トランプ大統領の発言を、現行条約・協定を見直すきっかけにすればよい。
 ましてや、駐留経費の4倍増などという、言われなき要求は、断乎として拒否せねばならぬ。わが国はすでに、法外の“思いやり予算”を含め、毎年8000億円ほどを拠出している。増額どころか、大幅減額が相当である。
 この世の中に、“侮辱と屈服の同盟関係”などありえない。わが国は今、主権国家として危ういところにいる。


 戦後75年。旧安保から69年、新安保から60年である。すでに日本も、また世界情勢も大きく変化した。いま、日米間の防衛協力のあり方を考え直すときが来ている。
 先日、辺野古埋め立て工事において軟弱地盤が判明し、さらに莫大な資金と15年以上の年月の必要が明らかとなった。この際、安保条約・地位協定を大胆に見直すなかで、「辺野古」を中止する選択肢もありうるのではないか。
 トランプ大統領の本音は、いまが時代の転換期であることをハッキリと知らしめた。

「自由」を奪う中国を非難する

2020.6.22

 香港の「自由」が風前の灯だ。

 中国の「香港国家安全維持法」の詳細が明らかになってきた。施行されれば、香港の自由は“合法的”に奪われることになろう。
 香港の拒絶意思がハッキリしているにもかかわらず、中国政府はかたくなである。しかし中国政府がどう強弁しようとも、人々の意に反した施政が正当化されることはない。

 先月、イギリス・アメリカ・オーストラリア・カナダの英連邦四か国は「香港の自由を脅かすもの」との非難声明を発表した。当然の声明だろうとは思うが、いささかの気持ちの悪さ、違和感もまた禁じえない。なぜなら、もともと香港は、アヘン戦争・南京条約、アロー号事件・北京条約を通じて、英国が清に割譲させたものだからだ。

 いま、何より尊重されるべきは、権益や、面子や、歴史的経緯からくる言い分などではない、香港の「自由」である。ひとは、自らの意思で生き、誰からも管理されない、という天賦の権利を有するのだから。

 他者の自由を軽んずる者は、いずれ、自らの自由をも脅かされよう。ここに声を大にして、香港の「自由」を踏みにじらんとする中国政府を非難する。

世界は変わる

2020.6.17

 黒人男性が白人警官に命を奪われた。事件を発端に、全米そして世界中で、人種差別への激しい抗議運動が拡がっている。地の底でフツフツたぎっていたマグマが、いよいよ火柱となって噴き出したのだ。21世紀になってもなお変わらぬ人種差別の現実。なんと醜いことか。

 ふと、グレタ・トゥーンベリさんを思い出した。昨年、地球温暖化への危機感を訴えて、四百万人の同世代若者とともに一世を風靡した17歳の少女だ。そのグレタさん、10年後に27歳になり、20年後でも37歳である。要するに未来は彼女らのものなのだ。若い世代の価値観や感性は、やがて国際世論の主流となり、世界を変えていくことだろう。

 さて、今回の人種差別問題。ニュース映像をみていると、抗議運動には少なからぬ白人やアジア系、ヒスパニック系などの若者の姿があるが、ここに希望を見いだすのは私だけだろうか。ひょっとしたら、やがて人類は人種差別を克服できるのではないだろうか。

新型コロナ、自由と民主主義

2020.5.8

 自国第一に取りつかれたトランプ大統領の米国。対コロナ方針はなお定まらぬように見えるし、WHO批判をくりかえす姿にも世界の指導的立場としての自覚は感じられない。こんな調子では、自由と民主主義のチャンピオンとしての威信に傷がつくのではないか。
 かたや、強権を発動し、力づくで感染拡大を抑え込んだ中国。情報隠蔽、都市封鎖、徹底した行動監視などの手法は、自由と民主主義を重視せず、私権の制限に躊躇のない彼の国だからこそ可能だったにちがいない。いまや中国は、医療器材や医薬品で世界を支援してみせるなど、明らかに“コロナ後”を意識している。

 グローバル資本主義の帰結として、世界で格差が拡大し、中間層が没落する。それが世界を右傾化させ、ポピュリズムを台頭させた。かくして自由と民主主義が輝きを失いつつあるなかで、パンデミックが発生した。気がかりなのは、自由と民主主義の求心力がさらに失われるのではないか。世界が、強権と独裁への志向を強めるのではないか、ということだ。

 わたしたちの日本はどうか。安倍首相は、5月3日(憲法記念日)のタイミングにあわせ、感染症対策と関連づけて、あらためて憲法改正を訴えた。日本国憲法に「緊急事態条項」を書き入れ、非常時の政治に強い権限を与えよ、との主張だ。国家の非常時における法制は準備されて当然だが、国民の自由を制約する事柄を安直に取りあつかって欲しくはない。
 そもそも今日の感染拡大は、憲法に「緊急事態条項」が無かったせいではない。三か月も前から、充分な検査と治療体制の必要が叫ばれてきたにもかかわらず、政府はいまだ有効な体制を構築できずにいる。この辺の経緯については今後しっかり検証されなければならないが、いずれにしても、憲法が原因でないことはハッキリしている。自らの拙劣を棚にあげ、この機に乗じて改憲をとは、些か悪乗りが過ぎよう。

 やがてコロナは終息する。そのとき、世界はどうなっているだろうか。中国式の強権的・独裁的なあり方をよしとする声が増しているのだろうか。だが仮にそうだとしても、わたしは、日本のすすむべき道はその真逆にあると信ずる。
 なぜか。たとえばある国が危機に直面したとする。そのとき、ありったけの叡智を集められるかどうかが国の将来を分けるだろう。そして、叡智を結集できるかどうかは、その国において自由と民主主義が保障されているかどうかで決まる。強権と独裁は結局のところ、もろく、あやうい。
 自由と民主主義をより成熟させる。これが日本のすすむ道だ。

日本の食料は?

2020.4.27

 コロナ感染が世界規模で拡大するなか、食料の生産・流通・貿易に混乱が生じ、世界はにわかに食料危機の様相を呈している。世界食糧計画(WFP)はじめ国連食糧農業機関(FAO)、世界貿易機関(WTO)、世界保健機関(WHO)も、こぞって懸念を表明した。ここでも、グローバル経済の脆弱性が露呈したかっこうだ。
 ただ食料不安はいまに始まったことではない。コロナによる混乱がなくとも、気候変動、水不足、土壌流失、人口増などで世界の食料事情は年々深刻度を増している。この機会に、食料輸入大国ニッポンこそは、おのれの弱点を直視すべきだ。

 いざという時を考えるとゾッとする。たとえば「穀物」は3000万tの輸入に対して国内生産わずか1000万tである。「農地」は、全国450万haの生産で自給率(カロリーベース)4割弱しかまかなえない。つまり圧倒的な農地不足。さらに、「輸入額(油脂等を含む)」は8兆円弱(2018年)だが、日本の国力は衰退傾向にある。いつまで買い続けられるのか保証はない。
 いざというとき、最低限どれだけの食料を生産して、いかにして国民の生存を守るか。食料安全保障という基本中の基本について、アタマをきりかえて、大きく構想しなおす局面だ。

大掛かりな失業対策の必要

2020.4.20

 いま、コロナ退治とともに、困窮する国民の救済が急務である。さらに今後、失業者の急増も予想されるが、これは不景気にともなう一時的なものではなく、構造的な大規模の失業となる可能性が高い。したがって政府は、時をおかずに、大掛かりな失業対策・雇用創出策を打ち出すべきである。
 雇用創出といえば、思い浮かぶのは田中角栄元首相の「日本列島改造論」だ。これは、国土のグランドデザインをダイナミックに描くなかで有効需要を創出し、全国的に雇用を生む、という壮大なプランであった。今回予想される大失業には、「列島改造論」に匹敵するような、大掛かりな構想をもって立ち向かわなければならない。

 ところで、この「列島改造論」をもってしても東京一極集中の流れは止められなかった。工業立国をかかげ効率性を追求しつづけるかぎり、日本はこの流れを逆転できないのだろう。
 だが、ひょっとしたらコロナ危機が逆転のきっかけをつくるかもしれない。すでに多くの識者が述べておられるように、コロナ危機はこれまでの産業や経済社会のあり方をドラスティックに変えるだろう。その場合、「一極集中」から「分散自立」へとベクトルが変わる可能性はある。あの田中角栄ですらなしえなかった大転換があるのなら、ここに大掛かりな失業対策を仕込まなければならない。

 ひとは「食料」と「水」と「エネルギー」がなければ生きられない。いつの時代にも、つまり経済恐慌がおきようと、財政が破綻しようと、これらはわたしたちの生存に欠かせない物資である。にもかかわらず、日本は約8兆円分の「食料」と、約20兆円分の鉱物性「エネルギー」を毎年輸入している。まるで生殺与奪の権を外国に委ねているようなものだが、はたして、このさき安定輸入できるかどうか、ここにきて疑わしくなってきた。
 ならば、この際、全国それぞれの地方が、「食料」「水」「エネルギー」を可能な限り自給調達することをめざすべきではないか。これは、地方みずから富を創出し、地域経済をグルグル循環させて乗数効果的に活気づけ、これによって雇用を創出する道筋でもある。地方がみずから自立的な経済圏をつくり、近隣の経済圏とともに連携し合うならば、全国に何十か所、何百か所もの分散自立型地域社会ができあがる。日本は晴れて、持続可能な、足腰の強い国となることができるのだ。こうして、中長期的な国づくりのグランドデザインを描くならば、そこへ人々が回帰する道筋をも描くことができるだろう。
 言うまでもなく、失業者にはまず今日、明日の仕事が必要である。たとえば2年程度の任期つきで公務員として受け入れるなど、公的部門の出番である。あるいは洪水予防のための河床浚渫のように、やるべき公共事業はいくらでもあるし、幅広いメニューで雇用を創出することは可能だ。このように、まずは緊急の受け皿を用意し、それがやがて、分散自立型の国づくりの中で、ひろく吸収されていくような段取りを構想するのだ。

 補正予算案には、地方自治体が、ホテル借上げや“協力金”などに充てる「地方創生交付金」が1兆円計上されている。わたしは、この「地方創生交付金」について、使途・規模ともに格段に増強し、今後数年度にわたって継続的に予算確保すべきだと考える。
 大掛かりな失業対策のため、そしてポストコロナ社会・分散自立型の国づくりのために、その主役となる地方に対して、国は出来得るかぎりの支援をしなければならない。必要とあらば、既成制度の発想をこえて法律を作り、税制を整え、ファイナンスの仕組みを準備すれば良いのだ。ここは日本国にとって、“乾坤一擲の大勝負”なのである。

今こそ、イランの声に応えよ

2020.4.16

 コロナ感染が深刻なイラン。ラフマ二駐日大使は先月25日、東京都内で会見し、「米国の一方的かつ非人道的な制裁で、必要な医療機器や医薬品の調達に大きな支障を来している」と窮状を訴えた。
 昨年6月、米国とイランの双方に請われ、一度は、両者周旋に汗をかいた日本だ。ならば再度、両国の間に入るのは日本の果たすべき義理である。米国の制裁見直しを促すなり、イランの医療を支援するなり、やり方はいろいろあるはずだ。

 いま、世界はパンデミックの渦中にあり、先の見えない窮地に立つ。ワクチンや特効薬の開発をはじめ、世界の結束した協力が欠かせない場面だ。中国批判の道具立てのつもりか、WHOへの拠出金を渋るトランプ大統領はあいかわらずで、まったくもって困ったものだ。大ダメージを受けつつある世界経済は、いずれ、各国協力のもとに復興に向かわねばならないが、そんなとき、自国一国さえ良ければ…ではうまくいくはずがなかろう。
 伝染病だけではない。世界には核、温暖化、食料、貧困…と、国際社会の協力なくして解決できぬ難題があふれている。いまや、良くも悪くもグローバル化がすすみ、世界は一蓮托生である。国際政治の難しさは厳然としてあるにせよ、私たちは、どこかのタイミングで一段高みにのぼらねばならぬのではないか。国際社会全体での協調が、何も特別なことではなく、日常茶飯事であり、空気のように自然なことなのだと思える世界にしなければならない。世界が共通の厄災に襲われている今こそ、一歩も二歩も踏み出すときだ。

 分断、対立、不寛容な世界ではいけない。より良い世界にするために、日本は日本なりに力を尽くすことができる。それは、理念を掲げ、スジの通った主張をし、行動することだ。そのような日本のなす主張は、必ずや説得力をもつ。
まずは、イランの悲痛な声に耳を傾け、これに応えて、具体的な行動をとることだ。弱い者イジメはよせ!と割って入る義侠心のような、人として素直で、当たり前の行いができるかどうか。ここが日本の第一歩である。

アタマを有事モードにきりかえよ

2020.4.12

 有事である。パンデミックに打ち勝つため、アタマを平時モードから有事モードにきりかえて、緊急かつ大胆に迎撃体制を敷かねばならない。まず医療、そして雇用、金融、経済と、あらゆる分野において。連日の悲惨なニュース報道もあって、国民はすでに事態を理解し、スタンバイしている。なのにひとり政府だけが、いまだに「平時」のアタマのままだ。

 肝心の医療体制だが、刻一刻と勢力を増す「敵」(コロナ)への迎撃態勢がいまだ組めずにいる。政府は、医療機関にはコロナ診療ごとに診療報酬を加算すると言うが、ナンセンスだ。人工呼吸器どころかマスク・防護服すら不足するなかで、感染リスクや経営不安とギリギリ向き合っているのが医療現場の実情だ。診療報酬でコロナに対処せよとは、民生費予算で戦争を戦えと言うようなもので、とても政府の本気度が感じられない。要するに、政府はいまだ平時アタマなのだ。
 不可解なのは、いつまでたっても検査体制が整わないことである。「敵」がどこにいるのか分からぬままでは戦いようがない。もたもたするうちに、医療機関など大切な社会インフラが次々と「敵」の攻撃をうけて動けなくなっていく。政府は、どれほど指摘されても限定的な検査姿勢を崩そうとしないのだが、こうして検査が行われない中、静かなる感染は拡がりつづけ、新たな重症患者を生んでいる。「救命」をこそ最優先すべきなのに、これは、いったいどういうことか。
 感染拡大を止めるため、外出自粛・休業要請を呼びかけるのは当然である。しかし、食べるために休業したくても休業できない国民への手当もまた当然だろう。見ぬふりとまでは言わないが、国民の不安を和らげようともせず、ただ休業要請をする非情さに、平時アタマの限界を痛感せずにはいられない。いま、困窮し不安を覚える国民に手を差し伸べることは政府の仕事なのだ。財政はこういう時にこそ、糸目をつけずに“大胆に”出動すべきものである。国民のための財政、国民あっての財政であり、国民さえ元気ならば国家はどうにかなる。

 ここは国家の一大事。政治の大目的は国民を守ることにある。政府はアタマを有事モードにきりかえて、既成の法律や制度を超えて、発想し、行動すべし。この際、思い切ってやればやるほど良い。戦力の逐次投入は必敗である。必要なら断乎たる手を打て。それが有事のリーダーシップではないか。

“有事”の医療体制を整えよ

2020.3.25

 どこかの大統領が「ワタシハ戦時ノ大統領ダ」と言ったように、いま世界でおきているのはまさに有事、新型コロナウィルスとの戦いである。わが国が最優先すべきは国民の“命”を守ることであり、ウィルスとの戦いに打ち勝つことだ。
 世界に冠たる日本医療ではあるが、現態勢では有事に対処できない。発熱外来や検査所、患者の仕分け、治療の役割分担など、地域の医療機関同士での連携・協力体制を整えること。あわせて、医療従事者、機器・器材・医薬品、医療施設を確保することは急務である。急ぎ、有事対応のフォーメーションを組みあげねばならない。

 日本の皆医療は診療報酬で賄われているが、有事においては、どうしても別段の財源が必要となる。この際、新型コロナ対策として相当規模の予算を確保し、万全の態勢で有事に臨むべきだ。
 政府は、近く、大型補正予算を組む。当然のことながら、国民の雇用を守ることは重要だし、急ブレーキのかかった事業活動を守ることもまた重要である。しかし何よりも、刻一刻と勢力を増す“敵”を迎え撃つことだ。

“乾坤一擲”の財政出動

2020.3.12

 高橋是清を尊敬している。「高橋財政」といえば、積極財政の代名詞のごとく言われたりするが、わたしの理解するところ、ときの経済状況に応じて財政出動したり緊縮に転じたりの、柔軟かつ大胆な財政運営こそが「高橋財政」である。高橋は、財政の手綱を締めるべき場面では、迷わずひるまず手綱を引いた。2・26事件で非命に斃れたのはそのせいだったと思う。
 ところで、財政政策を機動的に発動するには、健全財政、つまり財政に余力がなければならない。現在の、借金に依存しきったわが国財政に、その余力は残されてはいない。相撲にたとえるならば、土俵を存分に使ってこそ技は繰り出せるものだが、徳俵に足がかかってしまっては、あとは捨て身のウッチャリしか手がないのと同じだ。

 新型コロナショックが全世界の経済に急ブレーキをかけている。国民生活も、日本経済も、そして世界経済も危い。もともと世界的にバブルが膨らんでいたところに、景気後退の波がヒタヒタと寄せ始めた、そこにコロナショックが起きたのだから、事はただではすまないだろう。
 政府は躊躇なく、日本経済と国民の雇用をまもるために最善を尽くすべきだ。財政に余力は無いが、もはや、やむをえない。ハラを決めて、大胆に財政出動すべきだと思う。

 足が震えるほど窮まっていることを自覚した上で、わたしはあえて、“乾坤一擲の大勝負”を提案したい。コロナ危機対応にとどまらず、さらに一歩ふみこんで、日本の未来への投資に全力を注ぐのだ。人口減少、地方衰退、潜在成長力の低下…これらジリ貧を逆転させ、祖国日本を持続可能ならしめる。わたしは、「地域経済の自立」「地域共同体の再生」「少子化対策」こそがその急所であり、ここに的を絞って、相当規模の財政資源を投入すべきだと考えている。戦力の逐次投入はしないし、できもしない。“乾坤一擲”のウッチャリの一手である。
 「高橋財政」ならばこんな発想をするだろうと、勝手ながら思うのである。

これからの日米関係 (その1)~未来を展望するとき~

2020.2.22

 米国のトランプ大統領は、就任前から今日にいたるまで、「日米安保条約は不公平」「日本は防衛負担を増やせ」「在日駐留軍経費の負担を増額せよ」などの発言を繰りかえしている。米政府高官も日本政府に対して同旨の発言を重ねているので、これは、「米軍再編成」など彼の国の世界戦略にもとづいた主張と受けとめなければならない。
 「不公平」との認識には大いに反論のあるところだが、あえて、ここでは触れない。重要なことは、二国間条約の当事者の一方が、明示的に不満を表明していることだ。これは、日本国の安倍首相が安保条約六十周年の式典で、「六十年と言わず百年、いや不滅の柱として…これからも…」とたからかに謳いあげたのとは対照的である。
 ちなみに、かつて「戦後レジームからの脱却」を標榜した安倍首相による手ばなしの安保礼賛には、戸惑いを覚える。少なくとも、おいすがるかの礼賛コメントは、日本国の自尊心をひどく傷つけるものに思われるし、わが国がなにか弱音を吐露したかに映る危うさがある。国をあずかる政治家の発言として、いささか軽かったのではないか。

 いずれにしても、条約を締結する当事者の双方でこれだけ認識が異っている現実は、すでに現行条約体制が、今という時代をとらえきれなくなっていることを示している。
 考えてみれば、永遠につづく条約関係などこの世に存在しない。まして1951年の第一次安保から今日まで69年も経過し、世界情勢も、それぞれの国力も、考え方も、当時とはずいぶん変わってきている。われわれが、ここでいったん立ち止まり、あらためて未来を展望することは当然のことだ。

これからの日米関係 (その2)~日米安保条約~

2020.2.22

 日米安全保障条約のこれまでをザックリと振り返ってみたい。まず、敗戦そして占領された時代。わが国は、日本の完全非武装をめざすマッカーサーによって、日本国憲法「9条Ⅱ項」(戦力不保持・交戦権否認)を押し付けられた。米国内にもさまざま意見があったようだが結局のところ、「9条Ⅱ項」によって生じる空白を埋めるものとして「日米安保条約」が締結される。つまり、「9条Ⅱ項」と「日米安保条約」はセット、一対のものとしてこの世に生を受けた。

 「吉田ドクトリン」、つまり、敗戦で弱りきったわが国が安全保障を米国にゆだねた判断は、当時の状況からすれば、やむをえなかったものと思う。ただ問題は、主権回復後もこの形が変わらず継続され、六十年安保をへて、令和2年の今日にまでいたっていること。そして、その実態が、共産勢力からの日本防衛というより、米国が日本列島を勝手自由に軍事利用するためのもの、となっていることである。事実上の占領状態が続いているということだ。この、世界に類例をみない異例の現状について、わたしたちは立ち止まり、点検すべきなのである。

 米ソ冷戦が終結して、第二次世界大戦後の世界秩序はガラリと変わった。これによって、それまでの「日米安保条約」の存在意義は消滅した。日本もすでに、かつての敗戦国ではない。本来ならば、ここで憲法改正つまり「9条Ⅱ項」を削除し、かつ、「日米安保条約」を冷戦後世界に相応しいものに改定すべきであった。
 だが、そうはならなかった。なぜか。米国が、優れた立地の日本列島を自由使用できる特権を手放したくなかったのは言うまでもないが、しかしそれ以上に、われわれ自身がなんら行動をおこさなかったことがいけなかった。経済的繁栄に安住し、自主独立の気概を失い、思考停止し、事実上の占領から脱出するチャンスを逸したのはわれわれ日本人自身の失態である。痛恨の極みであった。

 冷戦終結からさらに三十年が経過する間に、「日米安保条約」はまったく異なるものへと変質する。これは重大な問題をはらむ変更であったと同時に、変更の手続きにも重大な瑕疵があった。両首脳間あるいは2プラス2という国民不在の場で決定された、つまり、民主国家のプロセスを経ずに決定されたことである。
 1996年の「日米安全保障共同宣言」、1997年の「新日米防衛協力の指針」、2005年の「日米同盟の未来のための変革と団結」と、いずれも、実態として、現行条約の規定を大きく踏み外したものであるにもかかわらず、国会の承認を受けてはいない。国家民族の命運を左右する重大事を、ときの政府が合意し、その結果として、日本国民はこれに拘束されるに至ったのである。

 かくして、「日米安保条約」は、いまや、民主国家のコントロールの外で自由自在にふるまうモンスターとなった。このモンスターに引きずられ、果てしない米国追従の道を行く日本。しかし、その行き着く先はいったい何処であるか。いったい誰が、いかなる責任において、日本の未来を、かわいい子孫を巻き込もうというのか。空恐ろしさに慄くばかりだ。

これからの日米関係 (その3)~海上自衛隊派遣~

2020.2.22

 日本国と日本国民を守るための自衛隊を、今回なぜ、中東に派遣するのか。関連船舶と石油を守るためと政府は言うが、後付けの理由に過ぎない。日本船舶はそのような危険にさらされてはいないし、船主組合からも要請はない。ズバリ、〝米国の要求を断われないから〟。それ以外に考えられない。

 「日米同盟の未来のための変革と団結」(2005年)では、日米協力の行動範囲が極東から全世界に広げられた。しかも日本はここで、「日米共通の戦略」にもとづき「国際的活動に協力する」ことを合意している。
 今回の海上自衛隊部隊の中東派遣は、まさに、この「国際的活動に協力する」一環なのであろう。民主国家としての手続きを踏まぬまま外国と取り決めをし、〝約束した以上は断れません〟とばかりに自衛隊を出す。そういう図柄なのである。とても尋常な姿とは思えない。

これからの日米関係 (その4)~歴史の教訓~

2020.2.22

 わたしたちは、今こそ立ち止まって、歴史を振り返るべきだ。
わが国は、近代化以降、対外関係を決するに軍事力をもって臨んだ。その結果として国際社会で孤立し、ついには破滅した。これは歴史の事実である。この反省にたてばこそ、戦後日本は『外国の紛争に軍事力をもって介入しない』ことを国是として誓い、国際社会で生きてきた。この外交姿勢は、決して間違ってはいない。
 しかし、今回の中東派遣は、アメリカとイランの『紛争』に『軍事力で介入』するものであり、したがって戦後日本の国是の転換にほかならない。〝そんなつもりはありません〟と言おうが言うまいが、国是の転換なのである。
 しかも、‶米国の戦争〟に巻き込まれる可能性がある。いや、むしろ米国はそれを心の中で望んでいるのかもしれない、そう考えるのが自然ではないか。だが日本国民の、いったい誰にその覚悟があるだろうか。誰がそんなことを望んでいるか。
 そもそも憲法は、今回のような自衛隊派遣を許してはいない。防衛省設置法の「調査・研究」の文言を根拠に、自衛隊を中東に出せるのなら、もはや歯止めなど無いに等しい。すべては、法治国家であり民主国家であるはずの日本国の、コントロールの外にあるようなものではないか。わが国は今、おびただしい犠牲のうえに手に入れた教訓をみずから踏みにじり、道を誤ろうとしているのではないか。

これからの日米関係 (その5)~提言~

2020.2.22

 「日米安全保障条約」は、すでに今という時代に合わなくなっている。われわれは、これからの日米協力のありかたを真剣に考え、かつ協議を開始する時機に来ている。
 不平等な地位協定があたえた特権にあぐらをかき、駐留経費の増額を当然のごとく要求する米国。かたや、〝アメリカに守られている〟と一方的に思い込み、「核の傘」が破れ傘であることにうすうす気づきながら、自分の足で立とうとしない日本。これが健常な関係といえようか。この不健全でグロテスクな二国間関係の原因が、惰性にながれた「日米安保条約」体制にあるのならば、これをゼロベースで見直すのはあたりまえのことだ。

 ここからは、わたしの提言である。
 いまこそ、本来の憲法改正を行うべきである。「9条Ⅱ項」を削除し、あわせて76条Ⅱ項(特別裁判所の禁止)をも改正して軍事法廷を設置可とする。独立国家にふさわしく自衛隊を国軍として扱う。しかし同時に、わが国は、歴史的教訓を決して無にはしない。『外国の紛争に軍事力をもって介入しない』との戦後日本の国是を貫くのだ。9条Ⅰ項「…国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」の文言そのままに。
 「9条Ⅱ項」と「日米安保条約」はその誕生からしてセットであった。したがって、「9条Ⅱ項」を削除すれば「日米安保条約」の役目もまた終わることとなる。日米両政府の合意のもとで、たとえば十年の期間をへて条約を解消することとし、引き続き、東アジアの安全保障について、どのような日米協力ができるのかを模索する。その上で、時代の要請に応じた、新たな日米条約を締結すればよい。
 在日米軍基地は、たとえば2045年(敗戦後100年)までの完全撤収を合意し、時間をかけて徐々に実行すればよかろう。主権国家ならば、外国軍隊の国内駐留など許してはならない。
 言うまでもないことだが、自国防衛の責任は自国にある。自主防衛体制を整えることは主権国家として当然のことだ。自主独立の気概をもって、①「9条Ⅱ項」を削除し、②「日米安保条約」の終了を日米で合意し、③自主防衛体制を整備し、④新たな日米防衛協力体制を構築し、⑤北東アジアに米国を含む多国間協議の場を設ける。この①~⑤を一連のパッケージと考えて実行する。すなわち、独立国家としての姿を取り戻すのだ。

 昭和20年、敗戦に際して、米内光政海相が天皇陛下に拝謁し、「私どもはこのたびの敗戦に大きな責任を感じております。日本の再興には五十年はかかるかもしれません。」と申し上げたのに対し、陛下は「五十年では無理だと思う。おそらく三百年はかかるであろう。」と仰せられたという。
今年、戦後75年を迎える。分かれ道に立ついま、自主独立の気概を振るって、正気を取り戻したい。トランプ大統領の不満表明は、絶好のチャンスである。

86万4千人

2020.2.12
 昨年生まれた赤ちゃんは86万4千人。“団塊の世代”当時の三分の一以下となった。いま大事なことは、少子化対策の具体的な手を打つことではないか。私案のひとつを紹介したい。

 産婦人科医から聞いて驚いたのだが、人工妊娠中絶は年間に100万件もあり2割(20万人以上か)は第三子だという。家庭があるのに諦めるのは経済的理由によるところが大きいのではないか。ならば、ここをターゲットにした一手が打てないか。
 私案は、中・低所得世帯(ここでは年間収入所得500万円以下を想定した)を対象に15歳未満の子供に応じて給付付き税額控除を行う、というものだ。たとえば、第一子に対して月2万円の年24万円、第二子は4万円の48万円、第三子以降は8万円の96万円の支出を考える。子供3人の世帯なら月14万円・年168万円の税額控除または給付金となる。約1.8兆円が必要となるが、既存の児童手当と配偶者控除を廃止することで相当額を確保できる。増税や借金をせずとも、現行施策を組み換えることでこれだけのことができるということだ。もちろん本案は考え方を示したもので鍛練すべき点は多いと思うが、“子をもちたい人がもちたいだけもてる”ための一提案だ。
 家族がいるしあわせ、子をもつよろこびは、ひとのもつ自然な感情だ。社会の雰囲気とキッカケがあれば、ひとの本能は感応するにちがいない。きっと、また賑やかになる。

国の独立

2020.2.1

 日米安保60年ということで、首相が、60年と言わず100年いや不滅の柱としてこれからも…と高らかに謳いあげる姿に絶句した。ふと「戦後レジームからの脱却」という言葉が頭に浮かんだが、何を言っても虚しいばかりだ。

 昭和20年、敗戦にあたり米内海相が天皇陛下に拝謁し、「私たちは大きな責任を感じております。日本の再興には五十年はかかるかもしれません。」と申しあげたのに対し、陛下は「五十年では難しいと思う。おそらく三百年はかかるであろう。」と仰せられた。
 今年は戦後七十五年。みちのりの、まだまだ遠いことを思わずにはいられない。

財政規律はどこへ行った

2020.1.24

 通常国会が召集された。これから、“大盤振る舞い”の元年度補正案そして二年度当初案と、予算審議が始まる。審議においては財政規律のゆるみこそ論点とされるべきだ。
 先週、内閣府の中長期試算が公表された。これをみると、日本財政がいかに追い詰められているか、よくわかる。試算によれば、2025年PB(プライマリーバランス)は8.2兆円の赤字と見込まれ、同年PB黒字化の目標達成は相当に厳しい。だが政府は、この財政再建目標をかならず達成せねばならない。財政拡大する以上、政府にはその義務がある。

 わがくに財政はダントツの世界最悪である。日本は言わば、借金で身の丈以上の生活を続けているようなものだが、「これからも続けます」ではマーケットの信認を得られようはずがない。このままでは財政は破綻する。結果、ヒドい目にあうのは国民と将来世代である。
 こんなふうに言うと、よく「破綻、破綻と言うがいっこうに破綻しないじゃないか」「オオカミ少年」などと非難されたりする。だがそれは、死に至る病だと忠告する者に対して、「まだ死なないじゃないか」と反駁するようなものだ。とくに最近の「財政赤字はいくらあっても大丈夫」との説には驚く。世の中に打出の小槌など無い。どう理屈をならべようと、借金漬けの財政は続きようがないのだ。

“一国二制度による統一”の行方

2020.1.22

 11日、台湾総統選挙で、蔡英文氏が堂々たる再選を果たした。

民主制とは、言うならば「自己決定(誰からも管理されないこと、監視カメラからも)」のシステムである。台湾は、「自己決定」を保障する総統選挙において、「自己決定」を是とする蔡氏を選択した。かくして中国の“一国二制度による統一”は、とことん拒否されたかっこうだ。
 となれば、このさき中国はどうでるのだろうか。「武器の使用は放棄せず、あらゆる必要な措置をとる選択肢を残す」(習近平氏)との言葉通り、武力で台湾の「自己決定」を踏みにじるつもりだろうか。同じく「自己決定」の統治原理を支持するわたしたちは、ことの行方を注視したい。

国を誤ることなかれ

2020.1.14

 1月10日、河野防衛相は、海上自衛隊部隊の中東派遣を命じた。しかし、である。日本国と日本国民を守るための自衛隊を、なぜ中東に出すのか。その理由がみあたらない。日本船舶と石油を守るためとの声もあるが、後付けにすぎない。しかも、国際世論があるわけでもなく、明確な法的根拠もなく、国会論戦を経たわけでもない。これまでに例のない、実にイレギュラーな海外派遣なのである。
 動機は“米国の要求を断われなかった”こと、以外に考えられない。政府は自らの意志というより、「日米同盟」という言葉に自ら縛られた挙句に派遣を決めた。これが実態であろう。

 派遣に至るプロセスを見ても、独立国家としての矜持が感じられない。三点、指摘する。まず、外交。“有志連合ではなく日本独自の派遣”だとして、米国とイランの双方に配慮したつもりだろうが、ご都合主義が世界で通用するとは思えない。米国の要求にもとづく、米国側に立った派遣であることは、イランも世界もとうに見抜いている。実際、海自部隊は米軍と「緊密に連携」する。いざ戦争になり、米軍が在日基地から出撃するとすれば、日本はもう立派な戦争当事国である。
 次に、自衛隊の運用。防衛省設置法を根拠とした海外派遣は例がなく、これが新たな先例となろう。今後、本法にもとづく調査・研究と言えば何でも通る、つまり歯止めがなくなるおそれはある。さらに、基本的に防衛大臣の決定・責任で海外派遣できることになろうから、それだけ国会のチェックから遠くなる。
 三つめは、説明責任。これほどの重大事を決めるのに、わざわざ国会閉会中をえらんでの閣議決定(12.27)であり、発令(1.10)であった。政府には国民を説得するだけの自信がなかった。そう思われても仕方ない。
 日本は独立国家として、自信をもって自国の原理原則を貫くべきだった。わが国はいい加減、「米国の要求だから仕方がない」というメンタリティからぬけだすべきだ。「仕方がない」「仕方がない」と言っているうちに、日本は“米国の戦争”にまきこまれる。それを国民は望んでいるか。いったい誰にその覚悟があるというのか。

 戦後日本は、「非軍事外交」つまり、他国の紛争に軍事力で介入しないことを国是としてきたではないか。それは日本が、わずか百五十年の間に、「軍事力外交」「非軍事外交」のふたとおりの生き方を経験した結果、他のどの国よりも「非軍事外交」の必要性、有効性を骨身にしみて知ったからではないのか。「非軍事外交」は、そんな日本だからこそアドバンテージとなるものであり、みちゆき日本外交の“切り札”ともなりうるものだ。
 遠く中東の紛争に海自部隊を出すことは、これまでの日本の歩みを無にする愚行である。おびただしい犠牲の上に手にしたアドバンテージを、いとも簡単に捨て去ることと同じである。国家としてのこの“変節”が、米国への依存心あるいは属国根性から来るものだとすれば、こんな悲しいことはない。国のために戦って散った無数の先人にあわせる顔などない。わたしたち日本は、ここでいったん立ち止まり、来し方を振りかえり、行く末に眼をこらしてみるべきである。米国追従路線は、この先行き止まりの袋小路になっている。

「日米同盟」と言うならば、米国を諌めよ

2020.1.5

 2日、米軍はイラク領内において、イランのスレイマニ司令官をミサイル攻撃で殺害した。米国によるこの蛮行は、厳に非難されるべきである。米大統領は殺られるまえに殺ってやったと胸を張るが、これが許されるのなら国際社会は無法地帯だ。実際、今後どのように事態が拡大していくのか予想もつかない。

「日米同盟」と言うのであれば、ここで日本は米国を諌め、率直に意見を言うべきであろう。殺害をきっかけに中東全域を巻き込んだ戦争に発展するかもしれぬ。その際、在日米軍が日本から出撃するなら、自動的に日本も戦争当事国となる。しかも、その時すでに海上自衛艦を中東に遊弋させ、米軍とは「緊密に連携」(2019.10.18菅官房長官)しているのだろうから、そうなればもう、日本は立派な戦争参加国というほかない。その覚悟があって「日米同盟」と言っているのか、ということだ。
米国に言うべきことは言わねばならぬ。米国の戦争につきあうつもりのないことも予め言っておかねばならぬ。日米地位協定とその運用についても問題提起が必要だ。それが言えぬなら、「同盟」などという言葉を使ってはならぬ。2005年の「日米同盟の未来のための変革と団結」合意は白紙に戻すほかない。

地熱エネルギー活用のすすめ

2020.1.4

 太陽光発電、風力発電、水力発電、はいずれも太陽エネルギー起源である。ゆえに、季節や天候、時間帯などで出力変動が生じ、送電系統の安定も難しい。これに対して、地熱発電は地球内部の地熱エネルギーを起源とするので、安定的かつ無限のエネルギーを期待しうる。石炭火力などと比べても安価でコスト競争力もある。
 日本は、世界有数の地熱資源国だ。現在のところ、もてる資源量のわずか2%しか活用がないが、今後、純国産エネルギーたる地熱開発に本腰をいれるべきだ。

 さらに、地熱発電には大いなる可能性がある。地熱貯留層のさらに深部から地熱エネルギーを取り出す“次世代地熱”の研究開発がすすんでいるのだ。仮にこれがモノになれば、世界のどこででも地熱発電が可能となる。
 地熱発電では、すでに世界シェアの七割を日本企業が担っている。“次世代地熱”の開発をなしとげた暁には、資源の乏しい国々にも、日本企業が技術を提供できよう。こうして、世界人類があたらしい「脱炭素」エネルギーを手にするのも夢ではない。

 文明史の転換点ともいうべき時代。これから30年50年がかりの国策として地熱活用を追求し、一国のエネルギー自立はもとより、人類を救う気概をもって臨みたい。

日本の「国是」が変更せられた日

2019.12.27

 イラン・イラク戦争の1987年、米国からの要請をうけて、日本政府がペルシア湾への自衛艦派遣に踏み切ろうとしたことがあった。しかし、当時の後藤田正晴官房長官が、「戦争になりますよ。その覚悟はあるんですか。」と猛反対し、ついに中曽根首相もこれを聴き入れ、派遣を断念した。わずか30年ほど前の話である。
 本日2019年12月27日、日本政府は、中東海域への自衛艦派遣を閣議決定した。結局のところ、“米国の要求を断われない日本”を露呈したかっこうだ。しかも、国連決議もなく、特別立法もなく、国会論戦もなく、安倍内閣の胸ひとつで海外派遣を決めたのだ。“アメリカに要求されれば閣議決定だけで自衛隊を出す”、その立派な先例ができたことになる。

 近代化以降わが国は、対外関係を軍事力で解決しようとして国際社会で孤立し、ついに破滅した。この反省にたてばこそ、戦後日本は「他国の紛争に軍事力をもって介入しない」との原則を貫き、「平和国家」「非軍事外交」を国是としてきたのである。
 だが、この国是はアッサリと捨て去られた。戦後日本の外交理念は根本から変更せられたのだ。もはや歯止めは無くなったと考えねばならぬ。後世「アレが日本の分かれ道であった」とならぬよう、わたしたち日本国民は今ここで立ち止まり、熟慮すべきである。

気候クライシスにどう向き合うか

2019.12.19

 温室効果ガスによる地球温暖化が、今日の気候クライシスをもたらしている。しかも、このまま温暖化が進行すれば、地球環境は人類の生存すら脅かすに至る。このことは、世界でおきている諸現象や科学的分析からして、もはや否定のしようがない。グレタ・トゥーンベリさんが言うように「温暖化は緊急の対応を要する問題」なのだ。
 COP25では、日本は温暖化対策にうしろ向きの国、と非難された。わたしは、かならずしも日本がそうだとは思わない。だが、世界から「うしろ向き」と見られるのは危険だ。世界では企業活動においても、ここにきて急激に、環境意識の有無がその企業の運命を左右するまでになった。今後さらにその動きは加速するだろう。人類の未来が危惧されるなかで、企業であれ、国家であれ、「うしろ向き」とみなされるのは倫理性が疑われるのと同じであり、したがって致命的ダメージともなりかねない。

 ここで日本は、国をあげて気候クライシスに向き合うことを決意し、世界にむけて強いメッセージを発すべきだ。脱炭素への行動計画も示さなければならない。本来、文明観や技術力の高さからして、日本こそが問題解決の牽引者としてふさわしい。わたしたちは、この、時代の大転換期にあたって、ハラを決めてかかるべきである。
 政府の動きが遅いのなら、まず国会がなんらかの危機感を表明すべきではないか。この問題意識のもとに本日、国会における運動がスタートした(※)。もはや、一刻の猶予もゆるされないと思う。

(※)19日、国会内において、COP25後のわが国が気候クライシスにどう向き合うかを考える主旨で、超党派議員連盟設立に向けた発起人会が開催された。

アベノミクスは”時間切れ”

2019.12.10

 政府は5日、事業規模26兆円の経済対策を決めた。財政支出は国・地方あわせて13兆円という大規模なものだ。対策では「経済の下振れリスク」が強く意識されており、多額の財政出動も“背に腹はかえられない”との文脈からであろう。しかし、災害対策はわかるにしても、その他緊急性、必要性につき気になるところもあり、財政規律がゆるんでいる印象はぬぐえない。わがくに財政が、世界のマーケットから信認を得られるか、緊張感ある財政運営がいっそう求められる。
 今ここで大事なことは、日本政府が、財政再建目標つまり「2025年基礎的財政収支黒字化」をかならず達成するとの強い意思を示すことだ。「また今回も先送り…」などということにならぬよう、ここであらためて目標達成へのシナリオを示すべきである。

 ところで、アベノミクスとは、第一矢「金融政策」と第二矢「財政政策」とで“時間稼ぎ”するあいだに第三矢「構造改革」を断行して潜在成長力を高める、というものであった。しかし始めてからすでに7年、いまでは「金融政策」は副作用が大きくなり過ぎ、「財政政策」は財政悪化がすすみ発動余地はない。もはや、「金融政策」「財政政策」のさらなる発動は無理である。つまり、アベノミクスは“時間切れ”となっているのであり、政府はこの現実を直視すべきだ。
 今後、政府の言う「経済の下振れ」は避けられないと思われる。そのときに、わたしがもっとも心配なのは、政府が日銀にさらなる緩和を求め、日銀がそれに応じてしまうことである。仮に、国債買入量を再び増大させた場合、国債の流動性が一段と低下し、危機に直結、命取りになってしまうことを恐れる。もはや、アベノミクスのアクセルを噴かすのは危険なのである。

中村哲氏に哀悼の誠を捧ぐ

2019.12.5

 昨日、中村哲氏が襲撃され亡くなった。訃報に言葉もない。氏は35年前にパキスタンで医療活動をはじめ、その後アフガニスタンにも活動をひろげて井戸や農業用水路の整備に力を尽くした。テレビ画面でしか存じ上げないが、「医療ではひとびとの飢えや渇きまでは治せない」「食えないから戦争に狩りだされる、食えるような農村にすることが大事」「困ってる人に力を貸したいと思うのは当然のこと」と訥々と語るお姿が目に焼き付いている。世の中にはこんな立派な方がいらっしゃるのか、と思ったものだ。
 こころから哀悼の誠をささげます。やすらかにお眠りください。

香港と、民主政と、日本と

2019.11.25

 香港の区会選挙で「民主派」が圧勝した。民主化を求める民意が明確に示されたかっこうだ。条例問題に始まる騒動の先行きはなお不透明だが、人権にかかわることでもあり国際社会はしっかりと見ておかなければならない。
 一連の報道に接しながら、香港の人々とくに若者たちの必死の思いに同情、共感している。民主主義の本質は「自己決定」「誰からも管理されないこと」であり、これを希求するのは人として当然のことだ。今後、かれらの民主化への渇望が止むことはあるまい。中国政府のめざす一国二制度がどこまで現実的なのか、今後どのように推移するのか、注視していきたい。台湾も固唾をのんで事態を見つめているだろう。もちろん、日本にとっても他人事ではない。

 ところで、わたしたち日本の民主政はどうか。言論NPOの世論調査によると、「政治家・政党を信頼する」との回答はわずか2割。ここ数年の投票率低下は著しいし、統一地方選挙では立候補者不足による無投票も全国に散見された。いま、日本の民主政は空回りしはじめているのではないか。
 ポピュリズムも、決して海の向こうの話ではない。政府の財政運営などは、その最たるものだろう。財政破綻を回避するには、社会保障の「給付」を減らし「負担」を増やすしかない。にもかかわらず政府が、国民の反発を恐れてか、破綻回避に本腰を入れない。これは立派なポピュリズムである。

 わたしたちは、「自由」の中核である自己決定のシステム、つまり民主政を、上手に使いこなせているだろうか。いま、世界は激動期を迎えている。当然日本も、難しい時代に向き合っている。これからの主役たる若者たちには、何としても民主政を上手に運転していってほしい。今のうちから、若者世代の本格的な政治参入を促したい。そのための思い切った手立てが必要だと思う。

地位協定を改める責任

2019.11.11

 3日公表の在日米軍報告書はショッキングだ。パイロットが薬物を常習する、ふざけながら訓練飛行を繰りかえす、日本政府へ事故報告しない、など数々の規律違反、軍紀の乱れがあるという。つづく6日には、青森県で米軍機から模擬弾が落下したが、いつものごとく、日本の警察はこれを接収し調査することすらできない。日本にいながら日本の法律に服すことなく、特権を与えられた在日米軍。あぐらをかいた振る舞いには、怒りを通り越して寒気を感じる。
 なぜ、こんな不健全でグロテスクな事態がつづくのか。それはズバリ、日米地位協定とその運用に問題があるからだ。「互恵性の原則」すら適用されず、米国に一方的な特権を認めた本協定は、刑事裁判権・基地管理権・環境権いずれにおいても、世界に例をみぬほど不平等だ。これを正しい姿に改めなければならない。

 戦争にやぶれ占領下におかれたわが国は、昭和27年4月28日サンフランシスコ講和条約の発効とともに主権を回復するはずであった。しかし現実には、同じタイミングで結ばれた日米安全保障条約と日米行政協定(今の地位協定)によって、事実上いまも、屈辱的な被占領状態にある。日本の主権は、いまなお損なわれたままである。
 同じく敗戦国のドイツのように、本来であればわが国も、冷戦終結後のタイミングで在日米軍を縮小させ、地位協定を改定すべきであった。その機を逸したのはいかにも残念だが、しかし、われわれ世代の眼の黒いうちに、なんとしてもやり遂げねばならぬ。

 日米関係が極めて重要なればこそ、地位協定は改定されなければならぬ。多くの国々と地位協定を結び、世界中に軍を展開している米国が、この道理を理解できないはずがない。
 日系二世のダニエル・イノウエ上院議員(故人)は生前、「アメリカという国は、こちらが本気になって本音を語れば、耳を傾ける度量をもっている」と言い残した。主権国家として、米国と正面から向き合うことだ。駆け引きは不要である。

首里城が象徴するもの

2019.11.6

 焼失した首里城を視察した。じかに惨状をみて、地元の方々の声を聴き、わかったことがある。それは、首里城がまさに沖縄の歴史や文化の象徴であること。したがって首里城は沖縄の「誇り」であること。そして「誇り」が火災でも失われていないことだ。かならずや首里城は再復元されるだろう。所有権が誰であれ、財源がどうであれ、あくまでも沖縄が主体となってやりとげるにちがいない。

 15世紀から19世紀まで約450年間、東シナ海に独立国としての琉球国が存在した。琉球国は「平和と守礼の国」であり、中国、朝鮮、日本などアジア各国との交易で栄え、多様性あふれる独自の文化を築きあげた。世界をつなぐ架け橋の役割をになうことで国を立てたのだ。したがって王城たる首里城は、軍事施設というより外交・交易・文化交流の拠点であり、まさに琉球文化の象徴である。
 中国への冊封の時代があり、薩摩藩から制せられ、琉球処分では沖縄県となり、そして沖縄戦の凄惨をきわめた沖縄。戦後はアメリカの施政下におかれ、1972年に日本復帰、そして今、基地問題で大きく揺れている。今年2月の県民投票で沖縄県民の意思が明確に示されたが、政府はこれに応えられずにいる。そこにきての首里城焼失なのである。

 わたしは、沖縄の基地問題が、「負担の軽減」といったレベルで解決できるとは思ってはいない。冷戦終結後のドイツが、在独米軍基地を縮小させ、地位協定を改訂して主権回復をめざしたように、敗戦国日本がみずから解決しなければならない国家主権の問題だと考えている。「主権はどうあれ米軍に守ってもらいたい」「基地はそのまま沖縄で引き受けてほしい」といった思考のままで、日本の独立が守れるとは全く思わない。
 沖縄県民は、首里城を失ったことで、あらためて「誇り」を自覚したようにみえる。きっと、琉球国以来のアイデンティティを再認識されたのではないだろうか。この際、わたしたち日本国民みんな、琉球国の生き方に思いを致してみることが大事ではないか。そしてそれが、基地問題の本質を考える機会になることを願う。「日本に復帰してほんとうに良かった」と心から感じてもらえる日本であるために。

北東アジアに集団安全保障メカニズムを

2019.10.28

 孫文は、1924年のいわゆる大アジア主義演説のなかで、『今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことである』と説いた。しかし日本は聴く耳を持たず、結局のところ、世界で孤立し、破滅した。今あらためて考えてみると、孫文の言葉は、『西洋覇道』を突っ走る当時の日本への痛烈な非難であったと同時に、今日の覇権主義中国への鋭い警告のようでもある。
 戦後の日本は「平和国家」を標榜し、軍事力ではなく法律や規則、外交交渉や国際協調をむねとして生きて来た。自由貿易の恩恵を受けて経済発展をなしとげ、国際貢献にも尽力して評価を得ている。わずか一世紀あまりの間に『西洋覇道』と『東洋王道』の双方を、身をもって経験した日本は、「覇権主義による繁栄は長続きしない」「平和と安定こそが各国の国益である」という教訓を、いまこそ確信をもって語るべきだろう。

 北京で開催された「第15回東京・北京フォーラム」に参加した。日本と中国がお互いに遠慮なく本音をぶつけあう姿は、少々意外だったが新鮮でもあった。パネルディスカッションでは、「日中はどんな協力をすべきか?」との問いに応えて、いくつかの提案をした。
 まず、「北東アジアにおける集団安全保障の枠組みづくり」である。フォーラム全体の雰囲気や日中共同世論調査をみると、ぼんやりとだがコンセンサスができつつあるように思う。決して容易なこととは思わないが、是非とも米中を巻き込んで実現したい。その意気込みを、今のうちから、高らかに宣言しておかねばならない。
 次に、その枠組みづくりへのアプローチとして、「透明性の向上」を提案した。疑心暗鬼を生ずるのは、見えないから疑念が膨らむのだ。透明性が確保されれば相互理解、相互信頼へとつながるだろう。この透明性の原則とは、第二次大戦後の欧州で、情報交換、相互通知、検証などを通じて軍事行動を抑制しようと提唱されたもので、現在も、核軍備・軍縮を実施するうえで、透明性・不可逆性・検証可能性の三原則のひとつとして有効に機能している。まず日中が、軍事面での透明性を向上させることが第一歩となると思うのだ。
 さらにもう一つ。千里の道も一歩から、なのでまず手はじめに、「北朝鮮の非核化」での協力を呼びかけた。唯一の被爆国日本と、北朝鮮と近い中国が、ともにリーダーシップを発揮しましょう。アメリカを、韓国を、北朝鮮を、モンゴルを、そしてロシアを説得して、七か国による会議を常設しましょう、と。

 欧州連合(EU)は仲良しクラブとして生まれたのではない。戦争回避のための知恵と努力の精華なのである。世界情勢が流動化しはじめた今、まずは北東アジアに、何らかのかたちで集団安全保障の枠組みを創りあげたい。多国間協議による戦争回避のメカニズムが欲しい。たとえ時間がかかろうとも。
 帝国主義の時代から今日に至るまで、アジアは分断されたままだ。世界の平和と安定のために、今度こそ『西洋覇道』ではなく『東洋王道』をもってアジア諸国と協調していく。それが、日本の天命であろう。

海自艦派遣に反対する

2019.10.20

 政府は18日、「中東地域の平和と安定、我が国に関係する船舶の安全確保のために、独自の取り組みを行っていく」(菅官房長官)と表明した。いわゆる有志連合に直接には参加しないものの、海上自衛隊部隊を中東に派遣し、得られた情報を米国に提供するなど、「米国とは緊密に連携していく」(同氏)とした。米国の意向に配慮するがイランとの関係も悪くしたくない、どちらにもいい顔をしたいとの意図がすけてみえる。詳細はあきらかではないが、少なくとも上記の趣旨であるかぎり、断乎として反対である。

 まず、派遣の理由がない。そもそも自衛隊は、日本国と日本国民を守るために存在する。その海上自衛艦がいったい何のために中東海域を遊弋するのか。いったい何を「調査・研究」(防衛省設置法)するのか。漠然と「中東地域の平和と安定」のためと言うだけでは理由にならない。憲法はこのような自衛隊派遣を政府に許してはいない。
「我が国に関係する船舶の安全確保のため」というのも取って付けた物言いである。現状、中東海域に日本船舶への明白な危険は生じていない。つまり、自衛艦派遣の正当な理由はどこにも無いのである。
 私たちは、今一度、歴史を顧みるべきだ。日本は近代化以降、対外問題解決に軍事力をもって臨み、結果として国を滅ぼした経験をもつ。その反省に立って、戦後日本は「他国の紛争に軍事力をもって介入しない」ことを国是とし、法律と規則、交渉や協調をもって外交を展開してきたのである。例外的に自衛隊を派遣する場合には、少なくとも、国連安保理決議や特別立法など、明確な大義と根拠を掲げ、国会の論戦・議決を経るのをつねとしてきた。今回、手続きも、差し迫った危険も、明白な理由もなく、なしくずしに自衛艦を出すならば、それは、戦後日本の外交方針を根幹から変更することになる。いったい誰が、いかなる責任において変更するというのか。

 第二に、日本外交にとってダメージが大きい。この六月、米国イラン双方から請われ安倍首相がテヘランに赴いたように、日本はこれまで、日本でなければできない役回りを引き受けて、非軍事的な手法で紛争解決に努力してきた。難しい場面で大切な役割を担ってきたのだ。しかし、ここで自衛艦を派遣してしまえば、もはや調整役たりえずこれまでの努力は台無しとなる。日本の説得力・調整力も失われるだろう。
 そもそも発想がいかにも姑息である。米国、イラン双方に気をつかい、うまい“おとしどころ”を見つけたつもりで自己満足している図である。日本人同士の内輪ならともかく、国際社会で通用するとは思えない。米国の側に立って地域介入する以上、イラン側からは敵性行動とみなされよう。そして結局のところ、国際社会の眼に映るのは“意思をもたないニッポン”“米国に付き随うだけのニッポン”という姿である。サムライの国がそんな不名誉にあまんじてよいものだろうか。

 第三に、この地域の紛争には、つねに、キリスト教とイスラム教の対立が直接的あるいは潜在的にかかわっていると言われる。日本はそのどちらにも敵対しない、宗教的寛容さをもつ文明圏であり、ここにこそ日本外交のアドバンテージがある。それを、いとも簡単に投げ捨てて、米国十字軍の一員となって良いはずがない。日本を、千数百年にわたる宗教間抗争に巻き込ませてはならない。
 旧オスマン帝国が欧州列強によって分割され、それから百年のときをへて、イランやトルコが台頭してきた。いま、中東で起きているのは、ダイナミックな世界史レベルのうねりである。シリア・トルコの対立、クルド民族、様々な問題に米国やロシアも複雑にからみ合い、どこからどこへ飛び火するのかわからない。「中東地域の平和と安定」などと軽々に自衛隊を出して、取り返しのつかぬことになるのを恐れる。

防災の体制づくりが急務

2019.10.16

 台風19号は甚大な被害をもたらしました。亡くなられた方々に心からお悔やみを申し上げ、被災各地の皆様にお見舞いを申し上げます。一日も早く復旧復興を果たし、日常生活を取り戻されることを切にお祈りしたします。

 温暖化の影響だろうか、近年の風水害はあきらかに頻発化、激甚化している。加えて、都市化や各インフラの稠密化もあるのだろう、われらが国土は災害に対し、より脆弱になっているように思えてならない。津波後の原発事故、地震後のブラックアウト、台風後の長期停電の例にみるとおり、ひとつの自然災害がその後、二次的あるいは複合的に拡大して、国民生活に複雑な被害をもたらす。経済や産業活動を妨げ、あるいは首都機能を脅かし、ひいては国家存続まで危うくすることもありえないことではない。
 現在、内閣府には防災部門がある。災害のたびごとに職員諸氏の献身的な働きぶりに頭の下がる思いがしている。しかし、災害の態様がここまで広範囲、複層的、大規模になり、現代社会に乗数的にダメージを与えるようになったことを考えると、ここで思い切って、国をあげての防災体制を整えるべきではないか。日本列島のみならず世界中の事例研究を含め、あらゆる災害への備えについて考え抜き、一年三百六十五日、来る日も、来る日も、あらゆる事態を想定した対処準備、防災技術の研究開発、防災教育・訓練などを担う。そんな体制づくりが必要ではないか。ここに人員も予算も集めるべきではないか。
 赤澤亮正衆議院議員が提唱する「防災省」創設は、今日いよいよ一段の説得力をもつに至った。災害大国と言われる日本が、「防災立国」(赤澤氏)を決意するならば、次から次に発生する災害から国家国民を守りぬくのはもちろんのこと、ハード・ソフトあらゆる分野でイノヴェーションを誘発し、それが世界人類に貢献し、ひいては日本を新技術立国へと導くだろう。

消費税、増税に思う

2019.10.8

 なぜ財政がここまで悪化したのか。この三十年を振り返れば、理由は一目瞭然だ。実は、この間、公共事業費も、教育関係費も、防衛費も増えてはいない。増えたのは、社会保障関係費とこれに伴う公債費のみ、であった。増加分はすべて借金で賄われたかっこうで、借金が積もりに積もって、ついに国が立ちゆくかどうかというところまで来た、というのが真相だ。要するに、財政問題イコール社会保障問題なのだ。
 日本の社会保障は、よく「中福祉・低負担」と表現される。国民は「負担」以上の「給付」を享受しているわけで、これが続く限り、財政赤字はふくらみ続ける。世間には、極端な楽観論もあるようだが、この世に「打出の小槌」など存在しない。身の丈以上の生活を続ければ、いずれ破産するのは当たり前のことだ。
 財政と社会保障を持続可能にするには、国民の「負担」と「給付」をバランスさせるしかない。改革には大きな「痛み」がともなう以上、いかにして国民に理解を求めるか。いかにして国民の協力を得るか。ここが、日本の分かれ道になる。

 十月一日、一部商品を除いて消費税率が10%に引き上げられた。これまでに二回の延期、そして軽減税率導入、あるいは使途変更と、右往左往した末の、ようやくの10%である。さらに増税にあたっては、様々な痛税感の緩和策や景気対策が用意されたが、かえって複雑で分りにくいとの指摘もある。選挙民との対話でしばしば耳にするのも、「バラまくのなら、そもそも増税は不要ではないか」という困惑の声である。「社会保障を守るための消費増税」という一番肝心なメッセージが届いていないのだ。国民の理解と協力なしには成しとげられない大問題なのに、その目的すら伝わっていない。われわれ政治に携わる者は、ここを、痛切に反省せねばならない。たとえ国民に不人気な政策であろうと、まっすぐ国民に語りかける率直さ。いま、国政に一番必要なのは、この率直さ、愚直さではないか。

 野田内閣当時、与党たる民主党と野党の自民党・公明党とで、「税と社会保障の一体改革」を合意した。8%、10%の消費増税はここで決めたものだ。先進国で、これほどの増税を与野党協力して合意した例は他にみあたらない。与野党対立をのりこえた点、わが議会民主制の成熟度を示すものとして、もっと評価されてよいと思う。
 残念ながら、当時の信頼関係は、今はすでに崩れてしまったかに見える。しかし、もう一度、与野党が協力して、次なる「税と社会保障の一体改革」に着手すべきだ。10%が実現された今こそ、時をおかずに、今後の道すじを示すべきである。

何のための憲法改正か

2019.9.26

 憲法改正の議論を活発化させたい自民党だが、なかなか気運が高まらない。そのせいか、苛立ちの声もちらほら聴こえてくるのだが、問題はわれら自民党の側にこそあると感じている。
 憲法は国民みんなのものだ。憲法を改正すると言うのなら、「日本国と日本国民のために、どこを、どう変えるのか」を徹底して考え抜かなければならぬ。「ああ、なるほど」と国民の納得と共感を得られる議論でなければならぬ。私の見るところ、今回、そのプロセスを踏んでいるとは言えない。今からでも、しっかりと考えることだ。その上で、大事業を行う覚悟をもって国民と向き合うことが肝心ではないか。

 ひとくちに憲法9条と言うが、9条は第1項と第2項からなる。第1項は、いわゆる戦争放棄、平和主義を謳っており、変えるべきでない。ここに異論はないだろう。問題は、第2項だ。なかでも「国の交戦権はこれを認めない」との条文が、交戦権すなわち自衛権もないと解釈されうることが問題である。わが国に攻め込んできた外国を迎え撃つことすらできない、とも読めるような条文であることが問題なのだ。なぜ、こんな奇怪な書きぶりになっているのか。その問いに対する答えはシンプルだ。憲法制定当時、わが国に主権が無かったから。主権が無いから交戦権も無い、ということだ。その後、主権回復したから9条2項も削除すべし、ということで憲法改正が自民結党以来の党是とされてきたのである。
 ところが、安倍総裁が唐突に「9条2項は削除しなくていい。『自衛隊』と書き加えればそれでいい。」と言い出して、いつのまにか自民党案のごとく扱われるようになった。仮に、である。仮に、安倍案でいくとするならば、たしかに自衛隊は合憲となるだろう。しかし、そもそも日本に自衛権があるのかどうかの根本問題は、曖昧なまま残ってしまう。憲法のどこが問題なのか、どうすれば解決できるのか、きちんと考え抜いた改憲論議をすべきではないか。

 ところで、この9条2項の議論とは別に、自衛隊と憲法の関係を整理する上で、重要かつ喫緊の論点がある。それは、国連平和維持活動(PKO)に関することだ。(※PKOに基づき派遣される軍隊をPKFというが、以下では煩雑になるのでPKOで統一する。)
 かつての国連PKOは、紛争が落ち着いた状況下で行うものとされたが、今はそうではない。ルワンダ虐殺を傍観した反省からアナン事務総長のときに、国連自身が紛争当事者になる決断をし、国際人道法(以前の戦時国際法)を遵守する決定をした。つまり、PKO部隊自身も武力紛争の当事者となりうることになり、その結果、自衛隊のPKO参加に、憲法との矛盾が生じてしまったのだ。派遣される自衛官の法的身分もまた、曖昧で不安定なものとなった。したがって、ここをきちんと整理しなければならない。
 どうすべきか。選択肢は二つだ。一つは、憲法と矛盾するから国連PKOには参加しない、とする道。もう一つは、憲法との矛盾を整理して、紛争当事者となることを前提に、国連PKOに参加する道だ。日本が国際社会で生きていくために、どちらの道を選ぶべきだろうか。私は、後者だと考えている。
 わが国が、こうした国連PKOに参加するためには、自衛隊が国際人道法を遵守すること、国際人道法が求める法的環境を整え、自衛隊そして自衛官の法的身分をハッキリさせておくことが必要だ。ズバリ、戦争犯罪に関する軍法と軍事法廷が必要なのだ。そして、これは憲法76条の改正をも必要とする。自衛隊と憲法の関係をきちんと整理するための、重要かつ喫緊の論点はまさにここである。
 南スーダン撤退以降、わが国はPKOに部隊を派遣していないが、今後、法的環境を整備せぬままPKOに参加すべきではない。自衛隊・自衛官を、国際法上の正当な身分が与えられぬまま海外派遣してはならない。この際、自衛隊と憲法との関係を整理し、必要な法体系を整えた上で、国連PKOにきちんとした体制で臨むべきである。
 このように、憲法改正とくに9条の議論をするならば、「どうすれば、国家の独立と国民生活の安寧を守れるか」「どうすれば、国のために体を張ってくれる自衛官を正しく処遇できるか」ということを、とことん考え抜かなければならない。それは、政治の責任である。

[追記]:本稿執筆中の25日、安倍首相は、国連総会において「2022年国連安保理・非常任理事国への立候補」を表明した。国際人道法に適応する法体系を持たないわが国は、理論上、国連PKOに参加できない状況にある。憲法の本質的課題に向き合わぬまま、一足飛びに「非常任理事国」に名乗りをあげたかっこうだ。しかしこれは、国際社会に対する誠実な態度といえるのだろうか。

断じて、「有志連合」に参加してはならぬ

2019.8.24

 ホルムズ海峡の航行に不安があるというので、米国がいわゆる有志連合による船舶護衛を呼びかけている。すでに、英国とバーレーンにつづきオーストラリアも参加を表明した。日本も参加を働きかけられているが、「総合的に検討する」(岩屋防衛相)のコメントにみられるとおり、日本はこの件につき明確な判断を示していない。はたして日本は、「有志連合」に参加して自衛隊を派遣すべきであろうか。これに関して私の考えは明快である。断じて、この「有志連合」に参加してはならない。
 わが国は、近代化以降、軍事力をもって海外に展開し、結果として国を滅ぼした経験をもつ。その反省に立ち、戦後の新日本建設にあたっては「他国の国際紛争に軍事力で介入しない」ことを国是として固く誓ったのである。平和創造のためには、国連決議を目印に汗をかくことにやぶさかではないが、外交がままならぬから軍を出すなどという道とは訣別したのである。これまで我が国は、法律と規則、国際交渉と国際協調をもってやって来たし、その足跡は国際社会から一定の評価を得られているものと自負してよい。
 そこで今回の件であるが、まず、日本の国華産業運行のタンカーが攻撃された事案は、いったい誰が、何のために攻撃したのか、真相はいまだ、まったくもって「藪の中」である。その後も、日本の船舶が攻撃を受けたり、拿捕されたりする事案は一件も発生していない。したがって、少なくともわが国にとって明確な脅威がホルムズに発生しているとは言えない。さらに六月に、わが国の安倍首相が米国から請われ、イランからも請われてテヘランに赴き、両国の間に立って仲介・周旋の努力をしている途上である。難しい調整役を引き受けて、そこに全力を注ぐ姿を見せることは、国際社会からの信頼をかちとる上でどれほど重要なことか、言うまでもないだろう。ここで自衛隊を出したのでは調整役たりえなくなるのである。戦後日本の外交理念に照らしみたとき、「有志連合」には一ミリの迷いもなく「不参加」を表明すべきである。
 一方で、「米国の意向を無視できるのか」「多少問題あっても米国に従うべきだ」という声もあるだろう。しかし私は、米国追随のメンタリティーで自国の安全保障に関する意思決定をしてはならない、ということをことさらに強調したいと思う。そもそも米国追随路線は、この先行き止まりの袋小路になっている可能性が高いからである。
私がそう考えるには理由がある。第一に、米国は自国の利益を減じてまで、日本防衛にあたることはないという現実だ。それは、尖閣諸島の領有権に関し中立の立場をとっていることや、いわゆる「核の傘」が〝あって無きが如きもの〟であることからしても明白である。
 第二に、米国の国際戦略はどう見てもうまくいっているようには思えない。国連の賛同が得られなくとも有志連合を組織して軍事力行使に踏み切る、というやり方が、はたして有効だったのかどうか。アフガニスタン戦争や、イラク戦争をみれば明らかではないだろうか。軍事力行使をためらわない米国流は、何より米国自身を疲弊させるし、世界の安定確保という意味からも疑問ありと言わざるをえないのである。
 第三に、日本の独立を担保するのは、「自国は自国で守る」という、我ら自身の自主自立の気概である。しかし、米国追随のメンタリティーは、これを真っ向から棄損している。
激動の世界の中で、米国であれ、どこであれ、その国益に反してまで日本を守ってくれる国など存在しない。日本が独立国家だと言うのなら、苦しくとも、のたうちまわりながらでも、自主自立の気概を拠り所にして、国際社会の中で生きていくしかないのである。
 イランに対しても、言うべきは言わなければならない。世界唯一の被爆国として、核兵器に対して厳しい姿勢を示すことは、日本の天命ともいうべき役割であろう。北朝鮮の核開発は声高に非難するがそれ以外は無関心ということになれば、自分の利益にしか興味がない国とみなされて、我が国の主張に説得力は生まれない。世界の平和と安定のために、諄々と理想を説く資格が日本にはあるのだ。核兵器を否とする確固たる理念を表明し、核不拡散の国際ルールづくりに取り組むことこそが、日本外交の存在感を高め、日本の安全保障にとって大きな力になると信じる。
 いわゆる有志連合に安易にのってしまうことへの私の最大の懸念は、千年にわたるキリスト対イスラムの抗争に、我が国が巻き込まれることにある。米国がイラン核合意から一方的に離脱して独自の制裁を言い始めたことから、今回の緊張状態が生まれた。しかし、この対立は、何らかの経緯で宗教間抗争に飛び火しないとも限らない。実際、現下の国際社会には、キリスト対イスラムの不協和音が通奏低音のように流れているではないか。
 日本は外交下手などと言われながらも、こと中東においては独特の中立的な立場を有している。日本が、キリスト教国でもなく、イスラム教国でもなく、また「八百万の神々」というように、多様な文化・宗教に寛容であることも理由の一つであろう。とくに日本とイランとの間には、出光の石油買付けやアザデガン油田など、「義侠心」をともなう特別な交誼があるではないか。
 そんな日本を、千年抗争に巻き込ませてはならない。それは、もちろん日本のため、かわいい子や孫のためであるが、同時に世界のため、人類の未来のためでもある。世界の中に、宗教的寛容さをもち、対立や競争よりも調和と共生を説く文明国が、ひとつくらいなければならない。私は、そのように思うのである。