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中村哲氏に哀悼の誠を捧ぐ

2019.12.5

 昨日、中村哲氏が襲撃され亡くなった。訃報のニュースに言葉もない。氏は35年前にパキスタンで医療活動をはじめ、その後アフガニスタンにも活動をひろげて井戸や農業用水路の整備に力を尽くした。テレビ画面でしか存じ上げないが、「医療ではひとびとの飢えや渇きまでは治せない」「食えないから戦争に狩りだされる、食えるような農村にすることが大事」「困ってる人に力を貸したいと思うのは当然のこと」と訥々と語るお姿が目に焼き付いている。世の中にはこんな立派な方がいらっしゃるのか、と思ったものだ。
 こころから哀悼の誠をささげます。やすらかにお眠りください。

香港と、民主政と、日本と

2019.11.25

 香港の区会選挙で「民主派」が圧勝した。民主化を求める民意が明確に示されたかっこうだ。条例問題に始まる騒動の先行きはなお不透明だが、人権にかかわることでもあり国際社会はしっかりと見ておかなければならない。
 一連の報道に接しながら、香港の人々とくに若者たちの必死の思いに同情、共感している。民主主義の本質は「自己決定」「誰からも管理されないこと」であり、これを希求するのは人として当然のことだ。今後、かれらの民主化への渇望が止むことはあるまい。中国政府のめざす一国二制度がどこまで現実的なのか、今後どのように推移するのか、注視していきたい。台湾も固唾をのんで事態を見つめているだろう。もちろん、日本にとっても他人事ではない。

 ところで、わたしたち日本の民主政はどうか。言論NPOの世論調査によると、「政治家・政党を信頼する」との回答はわずか2割。ここ数年の投票率低下は著しいし、統一地方選挙では立候補者不足による無投票も全国に散見された。いま、日本の民主政は空回りしはじめているのではないか。
 ポピュリズムも、決して海の向こうの話ではない。政府の財政運営などは、その最たるものだろう。財政破綻を回避するには、社会保障の「給付」を減らし「負担」を増やすしかない。にもかかわらず政府が、国民の反発を恐れてか、破綻回避に本腰を入れない。これは立派なポピュリズムである。

 わたしたちは、「自由」の中核である自己決定のシステム、つまり民主政を、上手に使いこなせているだろうか。いま、世界は激動期を迎えている。当然日本も、難しい時代に向き合っている。これからの主役たる若者たちには、何としても民主政を上手に運転していってほしい。今のうちから、若者世代の本格的な政治参入を促したい。そのための思い切った手立てが必要だと思う。

地位協定を改める責任

2019.11.11

 3日公表の在日米軍報告書はショッキングだ。パイロットが薬物を常習する、ふざけながら訓練飛行を繰りかえす、日本政府へ事故報告しない、など数々の規律違反、軍紀の乱れがあるという。つづく6日には、青森県で米軍機から模擬弾が落下したが、いつものごとく、日本の警察はこれを接収し調査することすらできない。日本にいながら日本の法律に服すことなく、特権を与えられた在日米軍。あぐらをかいた振る舞いには、怒りを通り越して寒気を感じる。
 なぜ、こんな不健全でグロテスクな事態がつづくのか。それはズバリ、日米地位協定とその運用に問題があるからだ。「互恵性の原則」すら適用されず、米国に一方的な特権を認めた本協定は、刑事裁判権・基地管理権・環境権いずれにおいても、世界に例をみぬほど不平等だ。これを正しい姿に改めなければならない。

 戦争にやぶれ占領下におかれたわが国は、昭和27年4月28日サンフランシスコ講和条約の発効とともに主権を回復するはずであった。しかし現実には、同じタイミングで結ばれた日米安全保障条約と日米行政協定(今の地位協定)によって、事実上いまも、屈辱的な被占領状態にある。日本の主権は、いまなお損なわれたままである。
 同じく敗戦国のドイツのように、本来であればわが国も、冷戦終結後のタイミングで在日米軍を縮小させ、地位協定を改定すべきであった。その機を逸したのはいかにも残念だが、しかし、われわれ世代の眼の黒いうちに、なんとしてもやり遂げねばならぬ。

 日米関係が極めて重要なればこそ、地位協定は改定されなければならぬ。多くの国々と地位協定を結び、世界中に軍を展開している米国が、この道理を理解できないはずがない。
 日系二世のダニエル・イノウエ上院議員(故人)は生前、「アメリカという国は、こちらが本気になって本音を語れば、耳を傾ける度量をもっている」と言い残した。主権国家として、米国と正面から向き合うことだ。駆け引きは不要である。

首里城が象徴するもの

2019.11.6

 焼失した首里城を視察した。じかに惨状をみて、地元の方々の声を聴き、わかったことがある。それは、首里城がまさに沖縄の歴史や文化の象徴であること。したがって首里城は沖縄の「誇り」であること。そして「誇り」が火災でも失われていないことだ。かならずや首里城は再復元されるだろう。所有権が誰であれ、財源がどうであれ、あくまでも沖縄が主体となってやりとげるにちがいない。

 15世紀から19世紀まで約450年間、東シナ海に独立国としての琉球国が存在した。琉球国は「平和と守礼の国」であり、中国、朝鮮、日本などアジア各国との交易で栄え、多様性あふれる独自の文化を築きあげた。世界をつなぐ架け橋の役割をになうことで国を立てたのだ。したがって王城たる首里城は、軍事施設というより外交・交易・文化交流の拠点であり、まさに琉球文化の象徴である。
 中国への冊封の時代があり、薩摩藩から制せられ、琉球処分では沖縄県となり、そして沖縄戦の凄惨をなめた沖縄。戦後はアメリカの施政下におかれ、1972年に日本復帰、そして今、基地問題で大きく揺れている。今年2月の県民投票で沖縄県民の意思が明確に示されたが、政府はこれに応えられずにいる。そこにきての首里城焼失なのである。

 わたしは、沖縄の基地問題が、「負担の軽減」といったレベルで解決できるとは思ってはいない。冷戦終結後のドイツが、在独米軍基地を縮小させ、地位協定を改訂して主権回復をめざしたように、敗戦国日本がみずから解決しなければならない国家主権の問題だと考えている。「主権はどうあれ米軍に守ってもらいたい」「基地はそのまま沖縄で引き受けてほしい」といった思考のままで、日本の独立が守れるとは全く思わない。
 沖縄県民は、首里城を失ったことで、あらためて「誇り」を自覚したようにみえる。きっと、琉球国以来のアイデンティティを再認識されたのではないだろうか。この際、わたしたち日本国民みんな、琉球国の生き方に思いを致してみることが大事ではないか。そしてそれが、基地問題の本質を考える機会になることを願う。「日本に復帰してほんとうに良かった」と心から感じてもらえる日本であるために。

北東アジアに集団安全保障メカニズムを

2019.10.28

 孫文は、1924年のいわゆる大アジア主義演説のなかで、『今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことである』と説いた。しかし日本は聴く耳を持たず、結局のところ、世界で孤立し、破滅した。今あらためて考えてみると、孫文の言葉は、『西洋覇道』を突っ走る当時の日本への痛烈な非難であったと同時に、今日の覇権主義中国への鋭い警告のようでもある。
 戦後の日本は「平和国家」を標榜し、軍事力ではなく法律や規則、外交交渉や国際協調をむねとして生きて来た。自由貿易の恩恵を受けて経済発展をなしとげ、国際貢献にも尽力して評価を得ている。わずか一世紀あまりの間に『西洋覇道』と『東洋王道』の双方を、身をもって経験した日本は、「覇権主義による繁栄は長続きしない」「平和と安定こそが各国の国益である」という教訓を、いまこそ確信をもって語るべきだろう。

 北京で開催された「第15回東京・北京フォーラム」に参加した。日本と中国がお互いに遠慮なく本音をぶつけあう姿は、少々意外だったが新鮮でもあった。パネルディスカッションでは、「日中はどんな協力をすべきか?」との問いに応えて、いくつかの提案をした。
 まず、「北東アジアにおける集団安全保障の枠組みづくり」である。フォーラム全体の雰囲気や日中共同世論調査をみると、ぼんやりとだがコンセンサスができつつあるように思う。決して容易なこととは思わないが、是非とも米中を巻き込んで実現したい。その意気込みを、今のうちから、高らかに宣言しておかねばならない。
 次に、その枠組みづくりへのアプローチとして、「透明性の向上」を提案した。疑心暗鬼を生ずるのは、見えないから疑念が膨らむのだ。透明性が確保されれば相互理解、相互信頼へとつながるだろう。この透明性の原則とは、第二次大戦後の欧州で、情報交換、相互通知、検証などを通じて軍事行動を抑制しようと提唱されたもので、現在も、核軍備・軍縮を実施するうえで、透明性・不可逆性・検証可能性の三原則のひとつとして有効に機能している。まず日中が、軍事面での透明性を向上させることが第一歩となると思うのだ。
 さらにもう一つ。千里の道も一歩から、なのでまず手はじめに、「北朝鮮の非核化」での協力を呼びかけた。唯一の被爆国日本と、北朝鮮と近い中国が、ともにリーダーシップを発揮しましょう。アメリカを、韓国を、北朝鮮を、モンゴルを、そしてロシアを説得して、七か国による会議を常設しましょう、と。

 欧州連合(EU)は仲良しクラブとして生まれたのではない。戦争回避のための知恵と努力の精華なのである。世界情勢が流動化しはじめた今、まずは北東アジアに、何らかのかたちで集団安全保障の枠組みを創りあげたい。多国間協議による戦争回避のメカニズムが欲しい。たとえ時間がかかろうとも。
 帝国主義の時代から今日に至るまで、アジアは分断されたままだ。世界の平和と安定のために、今度こそ『西洋覇道』ではなく『東洋王道』をもってアジア諸国と協調していく。それが、日本の天命であろう。

海自艦派遣に反対する

2019.10.20

 政府は18日、「中東地域の平和と安定、我が国に関係する船舶の安全確保のために、独自の取り組みを行っていく」(菅官房長官)と表明した。いわゆる有志連合に直接には参加しないものの、海上自衛隊部隊を中東に派遣し、得られた情報を米国に提供するなど、「米国とは緊密に連携していく」(同氏)とした。米国の意向に配慮するがイランとの関係も悪くしたくない、どちらにもいい顔をしたいとの意図がすけてみえる。詳細はあきらかではないが、少なくとも上記の趣旨であるかぎり、断乎として反対である。

 まず、派遣の理由がない。そもそも自衛隊は、日本国と日本国民を守るために存在する。その海上自衛艦がいったい何のために中東海域を遊弋するのか。いったい何を「調査・研究」(自衛隊法)するのか。漠然と「中東地域の平和と安定」のためと言うだけでは理由にならない。憲法はこのような自衛隊派遣を政府に許してはいない。
「我が国に関係する船舶の安全確保のため」というのも取って付けた物言いである。現状、中東海域に日本船舶への明白な危険は生じていない。つまり、自衛艦派遣の正当な理由はどこにも無いのである。
 私たちは、今一度、歴史を顧みるべきだ。日本は近代化以降、対外問題解決に軍事力をもって臨み、結果として国を滅ぼした経験をもつ。その反省に立って、戦後日本は「他国の紛争に軍事力をもって介入しない」ことを国是とし、法律と規則、交渉や協調をもって外交を展開してきたのである。例外的に自衛隊を派遣する場合には、少なくとも、国連安保理決議や特別立法など、明確な大義と根拠を掲げ、国会の論戦・議決を経るのをつねとしてきた。今回、手続きも、差し迫った危険も、明白な理由もなく、なしくずしに自衛艦を出すならば、それは、戦後日本の外交方針を根幹から変更することになる。いったい誰が、いかなる責任において変更するというのか。

 第二に、日本外交にとってダメージが大きい。この六月、米国イラン双方から請われ安倍首相がテヘランに赴いたように、日本はこれまで、日本でなければできない役回りを引き受けて、非軍事的な手法で紛争解決に努力してきた。難しい場面で大切な役割を担ってきたのだ。しかし、ここで自衛艦を派遣してしまえば、もはや調整役たりえずこれまでの努力は台無しとなる。日本の説得力・調整力も失われるだろう。
そもそも発想がいかにも姑息である。米国、イラン双方に気をつかい、うまい“おとしどころ”を見つけたつもりで自己満足している図である。日本人同士の内輪ならともかく、国際社会で通用するとは思えない。米国の側に立って地域介入する以上、イラン側からは敵性行動とみなされよう。そして結局のところ、国際社会の眼に映るのは“意思をもたないニッポン”“米国に付き随うだけのニッポン”という姿である。サムライの国がそんな不名誉にあまんじてよいものだろうか。

第三に、この地域の紛争には、つねに、キリスト教とイスラム教の対立が直接的あるいは潜在的にかかわっていると言われる。日本はそのどちらにも敵対しない、宗教的寛容さをもつ文明圏であり、ここにこそ日本外交のアドバンテージがある。それを、いとも簡単に投げ捨てて、米国十字軍の一員となって良いはずがない。日本を、千数百年にわたる宗教間抗争に巻き込ませてはならない。
旧オスマン帝国が欧州列強によって分割され、それから百年のときをへて、イランやトルコが台頭してきた。いま、中東で起きているのは、ダイナミックな世界史レベルのうねりである。シリア・トルコの対立、クルド民族、様々な問題に米国やロシアも複雑にからみ合い、どこからどこへ飛び火するのかわからない。「中東地域の平和と安定」などと軽々に自衛隊を出して、取り返しのつかぬことになるのを恐れる。

防災の体制づくりが急務

2019.10.16

 台風19号は甚大な被害をもたらしました。亡くなられた方々に心からお悔やみを申し上げ、被災各地の皆様にお見舞いを申し上げます。一日も早く復旧復興を果たし、日常生活を取り戻されることを切にお祈りしたします。

温暖化の影響だろうか、近年の風水害はあきらかに頻発化、激甚化している。加えて、都市化や各インフラの稠密化もあるのだろう、われらが国土は災害に対し、より脆弱になっているように思えてならない。津波後の原発事故、地震後のブラックアウト、台風後の長期停電の例にみるとおり、ひとつの自然災害がその後、二次的あるいは複合的に拡大して、国民生活に複雑な被害をもたらす。経済や産業活動を妨げ、あるいは首都機能を脅かし、ひいては国家存続まで危うくすることもありえないことではない。
 現在、内閣府には防災部門がある。災害のたびごとに職員諸氏の献身的な働きぶりに頭の下がる思いがしている。しかし、災害の態様がここまで広範囲、複層的、大規模になり、現代社会に乗数的にダメージを与えるようになったことを考えると、ここで思い切って、国をあげての防災体制を整えるべきではないか。日本列島のみならず世界中の事例研究を含め、あらゆる災害への備えについて考え抜き、一年三百六十五日、来る日も、来る日も、あらゆる事態を想定した対処準備、防災技術の研究開発、防災教育・訓練などを担う。そんな体制づくりが必要ではないか。ここに人員も予算も集めるべきではないか。
 赤澤亮正衆議院議員が提唱する「防災省」創設は、今日いよいよ一段の説得力をもつに至った。災害大国と言われる日本が、「防災立国」(赤澤氏)を決意するならば、次から次に発生する災害から国家国民を守りぬくのはもちろんのこと、ハード・ソフトあらゆる分野でイノヴェーションを誘発し、それが世界人類に貢献し、ひいては日本を新技術立国へと導くだろう。

消費税、増税に思う

2019.10.8

 なぜ財政がここまで悪化したのか。この三十年を振り返れば、理由は一目瞭然だ。実は、この間、公共事業費も、教育関係費も、防衛費も増えてはいない。増えたのは、社会保障関係費とこれに伴う公債費のみ、であった。増加分はすべて借金で賄われたかっこうで、借金が積もりに積もって、ついに国が立ちゆくかどうかというところまで来た、というのが真相だ。要するに、財政問題イコール社会保障問題なのだ。
 日本の社会保障は、よく「中福祉・低負担」と表現される。国民は「負担」以上の「給付」を享受しているわけで、これが続く限り、財政赤字はふくらみ続ける。世間には、極端な楽観論もあるようだが、この世に「打出の小槌」など存在しない。身の丈以上の生活を続ければ、いずれ破産するのは当たり前のことだ。
 財政と社会保障を持続可能にするには、国民の「負担」と「給付」をバランスさせるしかない。改革には大きな「痛み」がともなう以上、いかにして国民に理解を求めるか。いかにして国民の協力を得るか。ここが、日本の分かれ道になる。

 十月一日、一部商品を除いて消費税率が10%に引き上げられた。これまでに二回の延期、そして軽減税率導入、あるいは使途変更と、右往左往した末の、ようやくの10%である。さらに増税にあたっては、様々な痛税感の緩和策や景気対策が用意されたが、かえって複雑で分りにくいとの指摘もある。選挙民との対話でしばしば耳にするのも、「バラまくのなら、そもそも増税は不要ではないか」という困惑の声である。「社会保障を守るための消費増税」という一番肝心なメッセージが届いていないのだ。国民の理解と協力なしには成しとげられない大問題なのに、その目的すら伝わっていない。われわれ政治に携わる者は、ここを、痛切に反省せねばならない。たとえ国民に不人気な政策であろうと、まっすぐ国民に語りかける率直さ。いま、国政に一番必要なのは、この率直さ、愚直さではないか。

 野田内閣当時、与党たる民主党と野党の自民党・公明党とで、「税と社会保障の一体改革」を合意した。8%、10%の消費増税はここで決めたものだ。先進国で、これほどの増税を与野党協力して合意した例は他にみあたらない。与野党対立をのりこえた点、わが議会民主制の成熟度を示すものとして、もっと評価されてよいと思う。
 残念ながら、当時の信頼関係は、今はすでに崩れてしまったかに見える。しかし、もう一度、与野党が協力して、次なる「税と社会保障の一体改革」に着手すべきだ。10%が実現された今こそ、時をおかずに、今後の道すじを示すべきである。

「何のための憲法改正か」を考え抜け

2019.9.26

 憲法改正の議論を活発化させたい自民党だが、なかなか気運が高まらない。そのせいか、苛立ちの声もちらほら聴こえてくるのだが、問題はわれら自民党の側にこそあると感じている。
憲法は国民みんなのものだ。憲法を改正すると言うのなら、「日本国と日本国民のために、どこを、どう変えるのか」を徹底して考え抜かなければならぬ。「ああ、なるほど」と国民の納得と共感を得られる議論でなければならぬ。私の見るところ、今回、そのプロセスを踏んでいるとは言えない。今からでも、しっかりと考えることだ。その上で、大事業を行う覚悟をもって国民と向き合うことが肝心ではないか。

 ひとくちに憲法9条と言うが、9条は第1項と第2項からなる。第1項は、いわゆる戦争放棄、平和主義を謳っており、変えるべきでない。ここに異論はないだろう。問題は、第2項だ。なかでも「国の交戦権はこれを認めない」との条文が、交戦権すなわち自衛権もないと解釈されうることが問題である。わが国に攻め込んできた外国を迎え撃つことすらできない、とも読めるような条文であることが問題なのだ。なぜ、こんな奇怪な書きぶりになっているのか。その問いに対する答えはシンプルだ。憲法制定当時、わが国に主権が無かったから。主権が無いから交戦権も無い、ということだ。その後、主権回復したから9条2項も削除すべし、ということで憲法改正が自民結党以来の党是とされてきたのである。
 ところが、安倍総裁が唐突に「9条2項は削除しなくていい。『自衛隊』と書き加えればそれでいい。」と言い出して、いつのまにか自民党案のごとく扱われるようになった。仮に、である。仮に、安倍案でいくとするならば、たしかに自衛隊は合憲となるだろう。しかし、そもそも日本に自衛権があるのかどうかの根本問題は、曖昧なまま残ってしまう。憲法のどこが問題なのか、どうすれば解決できるのか、きちんと考え抜いた改憲論議をすべきではないか。

 ところで、この9条2項の議論とは別に、自衛隊と憲法の関係を整理する上で、重要かつ喫緊の論点がある。それは、国連平和維持活動(PKO)に関することだ。(※PKOに基づき派遣される軍隊をPKFというが、以下では煩雑になるのでPKOで統一する。)
かつての国連PKOは、紛争が落ち着いた状況下で行うものとされたが、今はそうではない。ルワンダ虐殺を傍観した反省からアナン事務総長のときに、国連自身が紛争当事者になる決断をし、国際人道法(以前の戦時国際法)を遵守する決定をした。つまり、PKO部隊自身も武力紛争の当事者となりうることになり、その結果、自衛隊のPKO参加に、憲法との矛盾が生じてしまったのだ。派遣される自衛官の法的身分もまた、曖昧で不安定なものとなった。したがって、ここをきちんと整理しなければならない。
どうすべきか。選択肢は二つだ。一つは、憲法と矛盾するから国連PKOには参加しない、とする道。もう一つは、憲法との矛盾を整理して、紛争当事者となることを前提に、国連PKOに参加する道だ。日本が国際社会で生きていくために、どちらの道を選ぶべきだろうか。私は、後者だと考えている。
わが国が、こうした国連PKOに参加するためには、自衛隊が国際人道法を遵守すること、国際人道法が求める法的環境を整え、自衛隊そして自衛官の法的身分をハッキリさせておくことが必要だ。ズバリ、戦争犯罪に関する軍法と軍事法廷が必要なのだ。そして、これは憲法76条の改正をも必要とする。自衛隊と憲法の関係をきちんと整理するための、重要かつ喫緊の論点はまさにここである。
 南スーダン撤退以降、わが国はPKOに部隊を派遣していないが、今後、法的環境を整備せぬままPKOに参加すべきではない。自衛隊・自衛官を、国際法上の正当な身分が与えられぬまま海外派遣してはならない。この際、自衛隊と憲法との関係を整理し、必要な法体系を整えた上で、国連PKOにきちんとした体制で臨むべきである。
 このように、憲法改正とくに9条の議論をするならば、「どうすれば、国家の独立と国民生活の安寧を守れるか」「どうすれば、国のために体を張ってくれる自衛官を正しく処遇できるか」ということを、とことん考え抜かなければならない。それは、政治の責任である。

[追記]:本稿執筆中の25日、安倍首相は、国連総会において「2022年国連安保理・非常任理事国への立候補」を表明した。国際人道法に適応する法体系を持たないわが国は、理論上、国連PKOに参加できない状況にある。憲法の本質的課題に向き合わぬまま、一足飛びに「非常任理事国」に名乗りをあげたかっこうだ。しかしこれは、国際社会に対する誠実な態度といえるのだろうか。

断じて、「有志連合」に参加してはならぬ

2019.8.24

 ホルムズ海峡の航行に不安があるというので、米国がいわゆる有志連合による船舶護衛を呼びかけている。すでに、英国とバーレーンにつづきオーストラリアも参加を表明した。日本も参加を働きかけられているが、「総合的に検討する」(岩屋防衛相)のコメントにみられるとおり、日本はこの件につき明確な判断を示していない。はたして日本は、「有志連合」に参加して自衛隊を派遣すべきであろうか。これに関して私の考えは明快である。断じて、この「有志連合」に参加してはならない。
 わが国は、近代化以降、軍事力をもって海外に展開し、結果として国を滅ぼした経験をもつ。その反省に立ち、戦後の新日本建設にあたっては「他国の国際紛争に軍事力で介入しない」ことを国是として固く誓ったのである。平和創造のためには、国連決議を目印に汗をかくことにやぶさかではないが、外交がままならぬから軍を出すなどという道とは訣別したのである。これまで我が国は、法律と規則、国際交渉と国際協調をもってやって来たし、その足跡は国際社会から一定の評価を得られているものと自負してよい。
 そこで今回の件であるが、まず、日本の国華産業運行のタンカーが攻撃された事案は、いったい誰が、何のために攻撃したのか、真相はいまだ、まったくもって「藪の中」である。その後も、日本の船舶が攻撃を受けたり、拿捕されたりする事案は一件も発生していない。したがって、少なくともわが国にとって明確な脅威がホルムズに発生しているとは言えない。さらに六月に、わが国の安倍首相が米国から請われ、イランからも請われてテヘランに赴き、両国の間に立って仲介・周旋の努力をしている途上である。難しい調整役を引き受けて、そこに全力を注ぐ姿を見せることは、国際社会からの信頼をかちとる上でどれほど重要なことか、言うまでもないだろう。ここで自衛隊を出したのでは調整役たりえなくなるのである。戦後日本の外交理念に照らしみたとき、「有志連合」には一ミリの迷いもなく「不参加」を表明すべきである。
 一方で、「米国の意向を無視できるのか」「多少問題あっても米国に従うべきだ」という声もあるだろう。しかし私は、米国追随のメンタリティーで自国の安全保障に関する意思決定をしてはならない、ということをことさらに強調したいと思う。そもそも米国追随路線は、この先行き止まりの袋小路になっている可能性が高いからである。
私がそう考えるには理由がある。第一に、米国は自国の利益を減じてまで、日本防衛にあたることはないという現実だ。それは、尖閣諸島の領有権に関し中立の立場をとっていることや、いわゆる「核の傘」が〝あって無きが如きもの〟であることからしても明白である。
第二に、米国の国際戦略はどう見てもうまくいっているようには思えない。国連の賛同が得られなくとも有志連合を組織して軍事力行使に踏み切る、というやり方が、はたして有効だったのかどうか。アフガニスタン戦争や、イラク戦争をみれば明らかではないだろうか。軍事力行使をためらわない米国流は、何より米国自身を疲弊させるし、世界の安定確保という意味からも疑問ありと言わざるをえないのである。
第三に、日本の独立を担保するのは、「自国は自国で守る」という、我ら自身の自主自立の気概である。しかし、米国追随のメンタリティーは、これを真っ向から棄損している。
激動の世界の中で、米国であれ、どこであれ、その国益に反してまで日本を守ってくれる国など存在しない。日本が独立国家だと言うのなら、苦しくとも、のたうちまわりながらでも、自主自立の気概を拠り所にして、国際社会の中で生きていくしかないのである。
イランに対しても、言うべきは言わなければならない。世界唯一の被爆国として、核兵器に対して厳しい姿勢を示すことは、日本の天命ともいうべき役割であろう。北朝鮮の核開発は声高に非難するがそれ以外は無関心ということになれば、自分の利益にしか興味がない国とみなされて、我が国の主張に説得力は生まれない。世界の平和と安定のために、諄々と理想を説く資格が日本にはあるのだ。核兵器を否とする確固たる理念を表明し、核不拡散の国際ルールづくりに取り組むことこそが、日本外交の存在感を高め、日本の安全保障にとって大きな力になると信じる。
 いわゆる有志連合に安易にのってしまうことへの私の最大の懸念は、千年にわたるキリスト対イスラムの抗争に、我が国が巻き込まれることにある。米国がイラン核合意から一方的に離脱して独自の制裁を言い始めたことから、今回の緊張状態が生まれた。しかし、この対立は、何らかの経緯で宗教間抗争に飛び火しないとも限らない。実際、現下の国際社会には、キリスト対イスラムの不協和音が通奏低音のように流れているではないか。
 日本は外交下手などと言われながらも、こと中東においては独特の中立的な立場を有している。日本が、キリスト教国でもなく、イスラム教国でもなく、また「八百万の神々」というように、多様な文化・宗教に寛容であることも理由の一つであろう。とくに日本とイランとの間には、出光の石油買付けやアザデガン油田など、「義侠心」をともなう特別な交誼があるではないか。
 そんな日本を、千年抗争に巻き込ませてはならない。それは、もちろん日本のため、かわいい子や孫のためであるが、同時に世界のため、人類の未来のためでもある。世界の中に、宗教的寛容さをもち、対立や競争よりも調和と共生を説く文明国が、ひとつくらいなければならない。私は、そのように思うのである。